見舞状 福島に寄り添いたい 重なり合う放射線不安
2月下旬、被爆体験者訴訟の原告、橋本ユミ子(77)=諫早市八天町=は、手紙をしたためていた。「同じ放射線被害で苦しむ者として寄り添うことができないか」。原告団事務局長、岩永千代子(76)の呼び掛けで、福島第1原発事故の被害に遭った福島県南相馬市の人たちに見舞状を送ることになったのだ。
橋本は最初、ためらった。67年前、爆心地から9・7キロの北高古賀村(現長崎市)で10歳のとき、原爆の灰が降り注いだ野菜や水を口にした。内部被ばくの健康被害を裁判で訴えている自分たちの手紙は、もしかしたら福島の人たちの不安を一層あおるかもしれない。尿管がんや甲状腺の病気を患い苦しんだ分、放射線被害について気休めを言うことは決してできない。でも、医療の進歩でこうして長生きしているのも現実。「私は元気です」。そう伝えることで不安が少しでも解消されるならと思い直し、筆を執った。
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6月初め、原告ら120人がそれぞれの思いを込めた見舞状は、カトリック原町教会を通じ、南相馬市民に届けられた。
「心合わせて生きていきたい」と書かれた橋本の手紙を読みながら、高橋美加子(64)=南相馬市原町区=は涙が出そうになった。60年以上にわたり、被爆者として認められないまま放射線被害に苦しんできたと主張する長崎の人たち。福島で低線量被ばくの健康不安を抱える自分たちと確かに重なり合う部分がある。
原町区は福島第1原発から30キロ圏内。同区の一部や市南部の小高区は今も居住が制限されている。手紙を読む数日前、避難生活を強いられていた80代の義兄が亡くなった。米作りに情熱を燃やした素朴な人だったが、最期を自宅で迎えることさえできなかった。
高橋の友人、小林和江(68)=原町区=も橋本の手紙を読んだ。「放射線は目に見えないから」。深いため息をつく。10年後、20年後、福島の人の健康に変調が出てくるかもしれない。「重低音のように心の底を流れる不安感の中で暮らしているんです。被爆体験者の人たちも似たような感覚でしょうか」
原発事故前まで、高橋は長崎の被爆体験者訴訟に関心を寄せたことなどなかった。だが今は違う。被爆地がたどってきた道を、福島はもっと知らなければ。高橋はそう感じている。
=文中敬称略=