フォールアウト 体の何かが変わった 放射性物質にさらされて
爆心地から8・3キロ、長崎市東部の間の瀬地区-。被爆体験者訴訟の原告、鶴武(75)=同市平間町=は当時9歳。友人とセミ捕りをしていた。強い光が走り、熱を帯びた爆風が吹き、木の葉がちぎれ飛んだ。長崎方向に黒い雲が立ち上り、こちらの空に広がった。暗くなり、降りだした灰と雨を浴びた。地面は汚れ、大量の降灰が積もった。
近くのため池はその日から薄黒く濁ったが、きれいな水がほかにあるわけもなく、家族で繰り返し飲んだり料理に使った。数日後、体に斑点が現れ、下痢が続き、やせた。体の何かが変わった。体調はいつも悪く、30歳で胃潰瘍や盲腸を患った。原爆に遭った時にそばにいた姉と弟は、既に20代で亡くなっている。胃がんだった。
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「燃えかすが降ってきた」「灰が葉っぱにこびり付いていた」。原告の多くが証言しているのが空からの降下物だ。
「原爆の爆発時、激しい上昇気流が発生し、放射性微粒子を巻き上げてできた原子雲が広がった。そして灰や雨と混ざり合ってフォールアウト(放射性降下物)となった」。原告側弁護団長の加藤剛(43)は、降灰や黒い雨の仕組みを説明する。空に広がる原子雲の下にいた人たちは、放射性物質が充満した空間にいて、呼吸や食物、飲料水などで内部被ばく。体内の放射性物質は細胞を攻撃し、がんなど晩発性障害を引き起こしているというのが原告側の主張だ。
原子雲は、当時の温泉岳測候所(現雲仙市)の所長の記録では、8月9日午前11時40分ごろ、長崎上空に雲底1200~1300メートル、雲頂4千~5千メートルもの雲を確認し、長崎から雲仙方向に毎時約11キロで移動したとされる。
雲の下で、雨や灰、そして目に見えない放射性物質の中にさらされた人たち-。国側は、放射性降下物が広く分布したことは一定認めながらも、長崎原爆はビキニ環礁の水爆実験(1954年)の700分の1程度の爆発規模で放射性降下物量はずっと少なく、人体影響を示すデータは存在しないとする。だが、加藤はこう指摘する。
「雲の下で放射能影響がなかったとする方が難しい。”体に原爆の放射能影響を受けるような事情の下にあった”と考えるべきであり、それはまさに被爆者援護法の3号被爆者規定に合致する」=文中敬称略=