取り残された「被爆者」 体験者訴訟判決を前に 1

「爆心地から12キロ圏内なのに川で被爆者を線引きするのはおかしい」と憤る馬場さん=長崎市、式見川

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取り残された「被爆者」 体験者訴訟判決を前に 1 未指定地域 川隔てれば手帳なく 「放射線消えるのか、不公平」

2012/03/11 掲載

取り残された「被爆者」 体験者訴訟判決を前に 1

「爆心地から12キロ圏内なのに川で被爆者を線引きするのはおかしい」と憤る馬場さん=長崎市、式見川

未指定地域 川隔てれば手帳なく 「放射線消えるのか、不公平」

「東側に行ったら被爆者で、西側に行ったらそうじゃないなんて…」。長崎市西部を流れる式見川で馬場實(75)=同市四杖町=は憤った。当時9歳。旧西彼式見村時代の1945年8月9日、この川に友人たちといた。「爆弾が落ちた」。原爆の閃光(せんこう)と熱風に襲われ、川の西側にある自宅へ逃げ帰った。

50代になり網膜剥離で左目を失明。右目も白内障でほぼ見えない。96年、大腸がんの手術を受けた。体の変調は放射線の影響ではないのか。だが爆心地から約7キロの式見川を境に、その西側にいた人は被爆者と認められない。

「川を隔てて原爆放射線は消えるというのか。12キロで被爆者手帳がもらえる地域もあるのに不公平だ」

57年に指定された長崎の被爆地域は爆心地から南側に12キロ超、残りは4~8キロで複雑に入り組むいびつな形。国側は、放射線影響について科学的な合理性が認められる範囲(爆心地から半径5キロ)を基本に、被爆当時の同市の行政区域を分断しないとの立法政策を採用した-と説明する。

12キロ圏内を被爆地域に-。未指定地域住民や市などは力を注いだが、76年の「特例区域」指定を最後に被爆地域の拡大は実現しなかった。壁となったのが「被爆地域の指定は科学的・合理的な根拠のある場合に限る」とする旧厚生相諮問機関、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)の80年の答申だった。

「90年度の残留放射能調査でも健康影響が認められず、あきらめムードが広がった。だが被爆者の精神影響の研究が進み、着目したのが被爆体験による『心の傷』だった」。98年から同市助役を務めた内田進博(72)は振り返る。市と関係6町は長崎大の協力で99年、12キロ圏内の未指定地域で原爆に遭った住民の証言調査を開始。調査結果から心的外傷後ストレス障害(PTSD)が出現している事実を国に突きつけた。

「放射線による健康被害はないが精神的な影響はある」。2001年、厚労省は「科学的根拠」を認めた。「官民一体で壁を突き崩した」と内田は語る。だが国は、医療給付対象を精神疾患や合併症に限定し、被爆者健康手帳を交付しない「被爆体験者」という新たな枠組みを打ち出した。

国の被爆体験者支援事業は02年に始まったが、医療給付を当時12キロ圏内にいて今も同圏内に住む人に限るなど問題をはらんでいた。

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爆心地から半径12キロ圏内で長崎原爆に遭いながら被爆者と認められていない「被爆体験者」395人が国や県、同市に被爆者健康手帳の交付などを求めた第1陣訴訟の判決が25日、長崎地裁で言い渡される。取り残された「被爆者」が歩んできた軌跡をたどり、訴訟の主な争点である内部被ばくの人体影響などを考える。=文中敬称略=