総員退避 「国守りたい生きたい」 5次の猛攻艦と仲間沈む
「総員退避」。号令が下ると上等水兵の依田功(85)=愛知県東海市、当時(18)=は艦尾へ無我夢中で走った。甲板は大きく艦首と左舷に傾き、ドラム缶が仲間たちを巻き込みながら数十メートル下の海へと落ちていく。舷側の鉄板の接ぎ目をつかみ必死に耐えた。だが艦は海に突き刺さるように沈み、依田も巨大な渦にのみ込まれ、意識を失った。
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1944年10月24日午前10時29分、武蔵は大和などと共に30隻の艦隊でフィリピン・レイテ湾に向けシブヤン海を航行中、米軍機300機に襲われた。
白い上下の戦闘服に日の丸の鉢巻きを締めた依田の配置は、艦後部の2番副砲の照準を合わせる照尺手。ひたすら撃ち続ける砲塔内では、熱気や爆音で空襲の様子をうかがう余裕などない。敵の第1波が去り外に出ると血の海。首や腕のちぎれた機銃員たちが四散していた。
制空権はとうに米軍に握られ、援護機はない。次第に攻撃は武蔵に集中し、魚雷による浸水で速度が落ちると、全長263メートルの巨体は格好の標的となった。左舷への傾きを抑えようと乗組員が積載物や負傷者を右舷に運び寄せたが無駄だった。
依田は分隊長の軍刀を取りに艦首へ向かった。既に海水が通路を浸し、おびただしい数の遺体が浮いていたが、それを踏み越えた。「怖いとか、助けようという感情よりも命令を守るので頭がいっぱい。神経がまひしていた」
命中した魚雷20本、爆弾17発。5次にわたる猛攻を浴び武蔵は午後7時35分、沈んだ。
「助かった」。暗い海面に顔を突き出した依田は目前のドラム缶にしがみついた。ふと誰かに背後から肩をつかまれ、何度か海中に引きずり込まれた。左足がけがで動かない。だから右足で払った。その人はもう浮いてこなかった。
駆逐艦に救助されるまで、どろりとした重油の海で力尽きた仲間は数知れない。依田は最近まで戦闘後のいきさつだけは口を閉ざしてきた。「戦友、遺族に申し訳なくて。でも国を守りたい、生きたい-。みんな必死だったんです」
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武蔵の試運転に1週間だけ参加した原良幸(89)は武蔵轟沈(ごうちん)時、近くのルソン島・マニラにいた。
三菱重工長崎造船所を休職して陸軍に入隊。福岡県門司で乗り込んだ輸送船が3カ月前、ルソン島北のバシー海峡で敵潜水艦の攻撃を受け沈没。10時間漂流したが、救命胴衣を着ていたのが幸いした。武蔵の最期を知ったのは戦後しばらくしてからだった。
武蔵乗組員2399人のうち、沈没時の戦死者は1039人。「私も『海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)』となっていたかもしれない。運が良かっただけだ」。そう言って原は、自宅に飾る色あせた武蔵の写真を見つめた。(文中敬称略)