戦艦武蔵の証言 太平洋戦争開戦から70年 中

戦艦武蔵の写真を見ながら当時を振り返る原口さん=南島原市北有馬町

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戦艦武蔵の証言 太平洋戦争開戦から70年 中 不沈艦 桁外れの巨大"御殿" 巨額国費、大きな戦果なし

2011/12/09 掲載

戦艦武蔵の証言 太平洋戦争開戦から70年 中

戦艦武蔵の写真を見ながら当時を振り返る原口さん=南島原市北有馬町

不沈艦 桁外れの巨大"御殿" 巨額国費、大きな戦果なし

太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾攻撃から8カ月がたった1942年7月、三菱重工長崎造船所の造機設計部商船係、原良幸(89)=長崎市虹が丘町、当時(19)=は訳も分からず汽車に乗せられ、広島県の呉海軍工廠(こうしょう)に着いた。行き先は親にも言うな-と厳命されていた。

瀬戸内海で1週間、試運転中の武蔵に乗艦。ボイラーの送風機の風力を計測する役を任された。スクリューを回すボイラー12基は、艦底の別々の区画に設置されており「移動が大変だった」。蒸し風呂のような現場では汗だく。持ち場を離れ、甲板を出歩くと軍人に叱られた。「仕事以外は退屈」で、いい印象はない。

巡洋艦筑摩の航海士として真珠湾攻撃に参加した海軍少尉候補生、原口静彦(90)=南島原市北有馬町、当時(21)=は同年5月、艤装(ぎそう)中の武蔵に転属。その桁外れのスケールに圧倒された。

舷側の装甲は厚さ最大41センチで、砲弾もはじき返す。13階分のエレベーターを備え、上甲板では「400メートルトラックを作ってリレーをした」。艦内は「複雑な迷路」で”迷子”が続出。細かく区割りされ、たとえ魚雷で穴が開いても、扉を閉めれば浸水被害を食い止められる。浸水して水の重さで艦が傾けば注排水で復原する。

起工から4年半、武蔵は試運転を経て同年8月5日、海軍に引き渡された。

一時は連合艦隊司令長官の山本五十六が乗艦し「旗艦」となり、昭和天皇も秘密裏に視察。兵たちは”大和ホテル”に対し”武蔵御殿”と呼んだ。原口も「絶対に沈まない」と上官から聞かされた。実際、敵潜水艦の魚雷1発を受けた際も、航行に何ら支障はなかった。

圧巻は、主砲の破壊力だった。弾の重さ約2トン。最大到達距離は4万2千メートルで、敵艦の射程圏外から狙えた。長さ20メートルの砲身は直径46センチもあり「同僚が砲身に潜り込んで怒られた。上官は敵に規模が知られるのを恐れていた」。砲撃は、砲術士の原口がコントロールした。

ただ、軍艦同士で戦った日露戦争の日本海海戦の勝利から既に40年近くがたち、主役は機動力に勝る航空機に取って代わられていた。大和型3号艦は工期半ばで空母に改造され、4号艦はスクラップに。2号艦の武蔵は、対空防御の機銃を当初の5倍強の130門に増やしたが、自慢の主砲は威力を発揮できなかった。「実戦では大音響で退避の警報が聞こえず、爆風で乗組員が吹き飛ばされた」。7カ月で艦を降りた原口は、後にそう聞いた。

巨大ゆえに膨大な燃料消費量を内地で賄えず、もっぱら油田のある南方で訓練に明け暮れた武蔵。技術の粋と巨額の国費を投じながら大きな戦果はない。”御殿”の呼び名にはそうした皮肉も暗に込められていた。

「すごい船なのに実態を知る人は少ない。かわいそうだ」。原口は少し寂しげにつぶやいた。 (文中敬称略)