機密「漏泄せず」と宣誓書 シュロで隠し建造、進水
戦艦武蔵-。旧日本海軍が誇る世界最大の大和型戦艦の2号艦は、長崎市の三菱重工長崎造船所で建造された。だが計画から作戦行動、そして沈没まで機密扱いされ、吉村昭の記録小説「戦艦武蔵」が世に出るまでその存在を知る人は一握りという”幻の軍艦”だった。太平洋戦争開戦から8日で70年。数少なくなった当時の技術者や乗組員の証言に耳を傾ける。
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海から山側へ緩やかに傾斜した立神第1・2船台は、武蔵建造当時のまま。山側に一部残る赤茶色のガントリークレーンも現役だ。金属のきしむ音を聞きながら上田募(つのる)(88)=同市西小島2丁目=は七十数年前に思いをはせた。
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「同艦ノコトニ関シテハ(中略)一切漏泄(ろうせつ)スルガ如(ごと)キコトナキ…」。1938年3月の武蔵起工から4カ月後、15歳で造船工作部員となった上田は、こんな宣誓書に署名押印した。原寸大の型板を造る仕事で、顔写真付き腕章がなければ現図場には入れない。当時は鉄板をつなぐ溶接技術が未確立だったため、頑丈な大型の鋲(びょう)をどこに打ち込むかを作業員に伝える役割も担っていた。
広島県の呉海軍工廠(こうしょう)ドックで造られた大和と比べ、難問は機密保持。すり鉢状の地形で、全長263メートル、排水量6万4千トンもの巨体をどう隠すか。しかも対岸には米英の領事館があった。そこで、船台を囲うクレーン全体をシュロの葉で覆い、対岸に長さ100メートルの目隠し倉庫を建てた。グラバー邸も買収。「銃を抱えた軍人が警戒し、市民や港を通る船の乗客に船台の方を見せなかった」
進水も厄介だった。ドック内の建造なら注水し海に浮かべればよいが、三菱に大型ドックはなかった。船台から艦を滑走させる進水は、緻密な計算と周到な準備が求められた。主砲などを積む艤装(ぎそう)前とはいえ3万トン超の艦が進水に失敗すれば、その場で解体を待つか、勢い余って対岸に乗り上げかねない。
40年11月1日午前9時前、上田らは右舷後部を見上げ、旗を振った。それを合図にシュロの幕が静かに開き、そのすき間を武蔵が滑り降りる。派手な軍艦マーチはなく、ブレーキ用の鎖を引きずるガラガラという音だけが響いた。
艤装用の向島岸壁でも客船を横付けして隠し続け、41年7月、佐世保海軍工廠にえい航。約1カ月間ドックに入れ、かじやスクリューを取り付けた。
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「負け戦にはなったが、造船の歴史に少しでも関われた」と上田は振り返る。国家機密だった武蔵の建造実績は、長崎造船所の技術の評価を高め、戦後は海上自衛隊の艦艇受注へつながる。船台ではきょうも護衛艦が組み立てられている。(文中敬称略)