女たちの終戦 下

「これまでの人生を振り返りながら生きたい」と語る近藤惠美子さん=佐世保市花高1丁目

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女たちの終戦 下 近藤惠美子さん(80)=佐世保市花高1丁目= 引き揚げの悲劇心重ね

2011/08/14 掲載

女たちの終戦 下

「これまでの人生を振り返りながら生きたい」と語る近藤惠美子さん=佐世保市花高1丁目

近藤惠美子さん(80)=佐世保市花高1丁目= 引き揚げの悲劇心重ね

北朝鮮平壌(ピョンヤン)市寺洞(サドン)で海軍書記の娘として生まれた。1945年8月15日の終戦から1年2カ月後、母らと、15歳で日本へと引き揚げた。

荷物は途中で奪われた。無一文で野宿をしながら山を越えた。貨車、船を乗り継ぎ博多港へ。生まれて初めて日本の地を踏んだ瞬間、ほっとした。

佐世保市江上町の父の実家を訪ねると、終戦直後に平壌で行方知れずになっていた父が迎えてくれた。捕らわれの身となり、シベリアに連行された後、3日前に引き揚げていたのだ。

父の日記には、当時の感慨が記されている。「皆元気な姿で帰ってきた。うれしくてうれしくて声も出なかった。夢にまで見た妻と子どもたちの顔…」

引き揚げ途中で息絶えた人がいた。現地の人に託された幼子もいた。でも家族は皆無事に帰れた。着の身着のままの出発だけど前を向いて生きようと決めた。

家族を支えるため、高校を辞めて長崎地方法務局佐世保支局などに勤めた。35歳の時、11歳年上で2人の娘がいる佐世保市の男性と結婚。いっぺんに妻と母になった喜びをかみしめた。

だが、夫はその後、心筋梗塞を患い入退院の繰り返し。看病、子育て、仕事。新しい家族のために約20年間、休む間もなく働いた。

夫は結婚から24年後に死去。それでも人生は続く。「くよくよしてはいられない」。定年後も77歳まで司法書士として現役を貫いた。妻、母、社会人として生き、年を重ねた。それとともに、あの混乱の時代の記憶は少しずつ薄れてしまっていた。

4年前のこと。同じ寺洞出身の人に、朝鮮で外国人兵の暴行を受け妊娠した多くの日本人女性が、引き揚げた後で中絶手術を受けたと聞いた。この悲劇を伝える碑が福岡県筑紫野市にあると知り、碑を訪ね、女性や胎児の痛みに寄り添った。

終戦直後、生まれ育った朝鮮半島で起きたこと。15歳の少女は知らずにいた、女性たちの深い心の傷。終戦から長い歳月を経て、その痛みがわが身にも突き刺さるようだった。

自分が引き揚げた博多港の記念碑も訪ね、それを機に、博多に行くと港を歩いたり、少し遠くから眺めたりするようになった。もう一度、当時をたどりたい。人生を振り返りたい-。

港にいると記憶がよみがえる。引き揚げた後、港の倉庫と倉庫の間を通り抜け、一心に駅を目指した。この体一つだけで。

ゆっくりゆっくり港を歩く。重ねた歳月をかみしめながら。その一歩一歩を確かめながら。

◆取材して思ったこと

「年ごろの娘さんはもっと大変だったと思う」。近藤さんの口から、あの時代の女性を気遣う言葉が何度も聞かれた。同性だからこその思いやりと、驚くほど前向きな姿勢。優しさと勇気を頂いた。