増田輝子さん(69)=諫早市真崎町= 1世紀 黙して生きた母
「また明日、来るけんね」。2月、諫早市内の病院。入院中の母(谷川ケサ)に笑顔を向けると、ベッドに横たわったまま、のどをコクッと動かした。何か言いたげだったようにも見えた。翌日、息を引き取った。享年100歳。
戦時中に亡くなった父のことを、母が話すことはなかった。戦時下の1944年、台湾で、乗っていた船が沈んで命を落としたということぐらいしか知らない。当時、33歳だった母は、2歳の私を抱え、途方に暮れたはずだ。
父の死をきっかけに、長崎市から西彼多良見町(当時)に疎開。45年8月9日の原爆投下後、母は私を連れて入市被爆した。8月15日、終戦を迎えたが、母の戦いは続いた。
疎開先では、頼る人も家も畑もなかった。粗末な小屋の一角、6畳に2人で暮らした。母は近所の農家で日雇い仕事をもらっては日銭を稼いだが、天候や季節に左右されやすく、収入は不安定だった。ほかに畑を借りて野菜を育て、自給自足で食いつないだ。
母はいつも野良着。口数は少なかった。働きづめで、授業参観などの学校行事に参加してくれた記憶はない。小学生のころ、家庭訪問の先生を、母が働く畑に連れて行って面談してもらったこともあった。貧しかった。でも、母には明治生まれの寡黙な力強さがあった。
結婚した後も、母と同居。孫の面倒をよくみてくれたが、父のことや戦争のことはやっぱり語らなかった。父がどんな人だったのか、何歳で亡くなったのか。あらためて聞くことはなかったし、母も話さなかった。ただ母は、父の軍服姿の遺影をずっと大事にしていた。命日には、仏壇に黙って手を合わせ、墓参りにも行っていた。戦没者追悼の慰霊祭には必ず出席し、東京の靖国神社にも参拝。そんな姿を見て育ち、自然と私も慰霊祭などに行くようになった。「祭ってあるからお参りに行く」。純粋に、その気持ちだけを受け継いだ。
この夏は母の初盆。きれいな絵柄の盆ちょうちんを部屋に並べてあげた。戦前、戦中、戦後の1世紀を生きた母。夫を戦争でなくし、母子で被爆して、女手一つで育ててくれた。
「お母さん、ありがとう」
母は幸せだったろうか。天国で父には会えただろうか。 (文中敬称略)
◆取材して思ったこと 夫や戦争への思いをほとんど語ることなく、貧しい時代を生き抜いたケサさん。物があふれ、便利な現代に生きる今の自分に足りない「強さ」と「忍耐力」を感じた。でもやっぱり聞いてみたい。「戦争はどんなものでしたか。つらくはありませんでしたか」と。