山道幸代さん(89)=長崎市神浦江川町= 2カ月の幸せ 胸に歩む
太平洋戦争が終わった66年前。当時の「主役」は男性たちだった。その陰に隠れ、人知れず困難を乗り越えてきた女性たち。妻、母、娘として、あの混乱の時代をどう生きたのか。彼女たちの”終戦”に光を当てる。
夫、山口義美と結婚したのは23歳の時。現長崎市琴海町出身の、会ったこともない男性だった。当時、「健康な軍人」は結婚相手の大事な条件。親の勧めに断る理由はなく、首を縦に振った。1944年、夫の所属部隊が駐屯する満州に渡った。
優しい人だった。初対面から少しずつ距離を縮め、穏やかな日々を過ごした。よく冗談を言って笑わせてくれた。一日一日が楽しかった。しかし、2カ月もたたないうちに、夫のフィリピン出征が決まった。
「国のためにもらった体なのに、家族の幸せを知ることができた。結婚してくれて、ありがとう」
あの言葉を忘れることはできない。
送り出す時、戦死も覚悟した。でも生きて帰ってくると信じて待った。戦況は悪化し、軍の命令でやむなく現長崎市神浦地区の実家に戻った。
終戦を迎えた。そして季節が4回巡ったころ、夫は小さな白木の箱で帰ってきた。中には名札しか入っていなかった。ほかに届いたのは部隊の上官がつづった戦記。隊員の最期が克明に記録されていた。
45年1月27日。戦闘中、2発の銃弾が腹部を貫通。「天皇陛下万歳」と叫びながら、銃で自らの胸を撃った-。これが夫の最期。25歳だった。
読むといつも、涙で文字が見えなくなる。「私だけ、次の人を見つけると義美さんに悪いね…」。戦死者の妻のあるべき姿とされていた「二夫にまみえず」を生涯貫く決意をした。
女性が外で働くという概念がほとんどない時代。勤めた地元の役場には男性しかいなかった。「女は家庭に入れ」。嫌みを言われるのはつらかったが、「これが自活の道」と自分に言い聞かせ、勤め上げた。
心残りは「日本のために子孫を残せなかったこと」。でも、私は幸せでしたと胸を張って言える。教育を受けさせてくれた両親のおかげで職に困らなかった。同居してくれた弟妹のおかげで寂しくなかった。旧姓のまま地元で暮らせたのも山口家の配慮があったから。そして、夫は一生残る”時”を共にしてくれた。
数年前から夫の戒名を記した紙を持ち歩いている。「向こうで会っても、義美さんは23歳の私しか知らない。妻の証拠をみせないと」。ずっと信じてきた。2カ月で止まった二人の時間が、いつか動きだす日を。(文中敬称略)
◆取材して思ったこと
女性の社会進出が目立ってきた現代。幸代さんは「いい時代になりましたね。女も強いんですよ」とほほ笑んだ。我慢を重ね、時代を変えてくれた女性たちのおかげで、私たちがある。先輩たちに感謝しながら、今を精いっぱい駆け抜けたい。