音楽 岩永崇史さん(32) 原爆詩に心奪われ作曲
ピアノの伴奏に乗って、合唱部員たちの歌声が放課後の校舎に響いた。爆心地に近い長崎市の活水中・高校。「歌の最後の『吾尚生きてあり』は光が差し込むようなイメージで」。鍵盤をはじく同校教諭、岩永崇史(32)の声が飛ぶ。
原爆の後遺症に苦しみながら核の非道を訴えた長崎の被爆詩人、福田須磨子(1922~74年)が世に残した「生命を愛しむ」。後年、この詩にメロディーを付けた曲が活水コーラス部「樟TwinkleStars」で歌い継がれ、長崎の証言の会などが毎年4月の命日に爆心地公園で開く集いでも献歌されている。作曲したのは岩永。同部顧問の傍ら、市民参加の長崎平和音楽祭で実行委員長を務めるなど多くの平和コンサートに携わり、アマチュア音楽家の一人としても活動の場を広げている。
その原体験は少年時代にある。シンガー・ソングライター、さだまさしが毎年8月、故郷の長崎から平和の祈りを込めて開いていた無料野外コンサート。「笑っていたら争いがない。大きなことはできなくても、音楽を聴いている間は笑顔でいようね」。さだの言葉、長崎で被爆した叔母のエピソードを歌った「広島の空」に魂を揺さぶられた。「自分の中に種がまかれたような感じだった」。兄のギターを借り、フォークソングを作り始めた。
既にその生涯を閉じていた須磨子との”出会い”は2005年春のことだ。命日の集いにコーラス部が初めて参加することになり、事前学習にと本を手に取った。初めて触れる須磨子の詩。その中の1編「生命を愛しむ」に心を奪われた。苦しみにあえぎながらも凜(りん)と生きようとする姿が、そこにはあった。
「新しき年の始めに/しみじみとわが生命愛しむ/原爆の傷痕胸にみちしまま/絶望と貧苦の中で/たえだえに十年/げにも生きて来しかな(後略)」。湧き出るように浮かんだメロディーを採譜し、特に印象的だった一節「吾尚生きてあり」を最後にリフレインさせた。
時を超えて生み出された楽曲。静かな流れの中にも生きる力強さと希望を感じさせる調べである。「須磨子の気持ちをくんでくれた。その思いが伝わってくる。須磨子は皆さんによってまだまだ生かされ続けている」。須磨子の姉、豊後レイコ(91)=大阪府豊中市在住=は曲の感想をこう語り、志半ばで原爆症に倒れた妹の遺志を次代に託す。
被爆3世でもある岩永には、忘れられないエピソードがある。県外に進んだ大学時代。その日は8月9日だった。遺跡発掘のアルバイト作業中、長崎にいたころと同じように原爆投下時刻に合わせて黙とうしていると、現場監督にしかられた。「こら、サボるな」。「今日は長崎原爆の日です」と説明したが、返ってきた言葉は岩永をさらに当惑させた。「何それ?」
岩永は今、須磨子の詩の作曲を続けている。9日の活水平和祈念集会などで新曲を披露する予定だ。「自分自身を振り返ると多くの場面で音楽に救われ、涙し、鼓舞された。音楽には不思議な力がある」。かつて自分が種を植え付けられたように、音楽で平和の種をまき続けたい。そうした地道な営みの先に核廃絶、平和は必ずある。そう信じている。(敬称略)
【略歴】いわなが・たかふみ 長崎北高から九州大文学部に進み、九大男声合唱団コールアカデミーに所属。2003年から活水中・高社会科教諭。長崎室内合唱団メンバーで、県合唱連盟長崎支部事務局次長を務める。長崎市在住。