被爆66年 表現者たち 伝えたい 戦後に生まれて 上

青木親子と向き合う吉田(右)=熊本市、県立湧心館高

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被爆66年 表現者たち 伝えたい 戦後に生まれて 上 写真 吉田敬三さん(50) 被爆2世 撮り続け

2011/08/01 掲載

被爆66年 表現者たち 伝えたい 戦後に生まれて 上

青木親子と向き合う吉田(右)=熊本市、県立湧心館高

写真 吉田敬三さん(50) 被爆2世 撮り続け

「原爆の日」を翌月に控えた日曜日。自分と同じ被爆2世の肖像写真を撮り続ける大村出身のフリーカメラマン、吉田敬三(50)=東京都足立区在住=は、熊本県立湧心館高の教室で遺影を抱く1組の親子にレンズを向けていた。「お父さん、表情がガチガチですよ」。噴き出す汗をタオルでぬぐい、緊張を解きほぐすように話し掛ける。

親子は、同校教諭の青木栄(50)と短大生の道子(20)。遺影の男性は長崎で原爆に遭い、9年前に他界した青木の父、辰次だ。父親が被爆者だと青木が知ったのは23歳の時。重い口を開くように語られた体験に言葉を失ったが、それは疎遠だった父、そして2世としての自分と向き合うきっかけとなる。「貴い命のリレー、絆のようなものが伝わればと思う」。近年、地元の学校で平和の語り部を始めた青木は、3世代の”集合写真”にそんな願いを託した。

こうした2世の思いをモノクロ写真でつむぐ吉田の経歴は異色だ。海外の現実を見たいと、9年間務めた陸上自衛隊を辞め、25歳から中南米を放浪。市街地での戦闘や爆破テロなど内戦の惨状を目の当たりにし、「言葉の壁を越えて伝えられる」写真の道を志す。

報道カメラマンとしてカンボジアなど海外を飛び回り、地雷被害などを取材。日本の雑誌や写真展で発表してきた。自分が2世だと自覚することはなかったが、40歳を過ぎて、ふと思い至った。「戦争被害などに興味を持ったのも、長崎で被爆した母親の体験が無意識のうちに影響したのではないか」。ほかの2世はどう生きているのか、知りたいと考えた。

全国の被爆者団体に手紙を送り、各地の集会に参加するなどして被写体探しを始めた。2003年のことだ。反応は散々だった。ようやく2世にたどり着いても、「子どもが学校でいじめられる」「寝た子を起こすな」と10人に声を掛けると9人から拒まれた。「原爆がうつる」と就職を断られた苦い過去を明かした男性、「娘が生まれつき視覚障害者なのは、自分が被爆者の子だから」と突然、大声で泣きだした女性-。少なからぬ差別や偏見、苦悩にもだえる姿に現実を実感したという。

これまでフィルムに焼き付けた2世は会社員や自営業者、教師、看護師、理学療法士、歌手、国会議員など26歳から60歳まで約100人。自宅や職場、挙式した教会の前、趣味のサーフィンを楽しむ海辺など、本人が素顔になれる場所でシャッターを切り続け、撮影地は長崎、広島を含む19都道府県になる。「自分の身近に2世がいると分かれば偏見なき関心を持ってもらえる」。ありのままの姿を撮ることは平和のメッセージになると信じる。

近い将来、肖像写真展を全国で開く計画だ。狙いは差別、偏見をなくすこと、そして2世の自覚を促すこと。「親の背中を見てきた2世が被爆者の思いを後世に伝えていかなければ、未来の希望はつくれない」。作品は2世自身へのメッセージでもある。(敬称略)

【略歴】よしだ・けいぞう 大村市立中学を卒業後、陸上自衛官などを経てカメラマンに。ポル・ポト派がゲリラ戦を繰り広げるカンボジアなどで取材してきた。近年は国内で路上生活者や障害者をテーマにした作品などを手掛ける。

◇ ◇ ◇

広島、長崎への原爆投下から66年。自分なりの表現手段で被爆者の思い、平和のバトンを次代につなごうと取り組む戦後世代を取材した。