再び 66年前の悪夢、眼前に 移住先で襲った「核」
東日本大震災から2カ月余りが過ぎた5月15日朝、木幡吉輝(こはたよしてる)(82)は福島県三春町の自宅を出ると、故郷の相馬市に向かった。JRと臨時バスを乗り継いで3時間余り。かつての車道には漁船が横たわり、民家は鉄骨の柱だけをさらしている。親類4人が津波にのみ込まれたのは、ここから南に下った海辺の町だった。
海岸線を北上し、幼少期に父や友人と遊んだ原釜海岸に出ると、視界が一気に広がった。そこにひしめき合っていたはずの集落は消え、がれき交じりの更地になっていた。むき出しになった土の上に転がるコンクリートの残骸。忘れよう、思い出すまい-。自らに言い聞かせてきた66年前のあの日の記憶と重なった。「身震いがして頭がおかしくなりそうだった」。木幡は振り返る。
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突然の爆発音とともに、山の向こうから黒煙が上がった。当時、旧制諫早中4年の16歳。諫早に疎開した大村海軍航空廠(しょう)・発動機修理部に学徒動員で派遣されているときだった。「学徒は救助に行け!」。トラックの荷台に乗せられ、その日のうちに山を越えた。
現場で命じられたのは、浦上に転がる死体の搬送だった。焼け焦げた遺体を素手で担架に移し、爆心地と近くの山を往復する終わりなき作業。幽鬼のような人々の姿と灼熱(しゃくねつ)の地に漂う臭気、あのうめき声。その場で幾晩も野宿し、恐怖で意識が何度も遠のいた。
諫早に戻ると、原因不明の脱毛や倦怠(けんたい)感、発熱に襲われた。12年後の諫早大水害を機に、見えない恐怖を忘れようとするかのように福島県に移住。小学校教諭を定年退職するまで被爆の事実を隠し通した。
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悪夢は過去のものだと信じていた。「福島にこんなに原発があったなんて。世の中に対してあまりに無知だった」。無残に変わり果てた原発の映像をテレビで眺めながら木幡は考える。「核」の怖さは周囲の誰よりも知っている。だが、突如襲った「核被害」の現実を受け止めかねている、それも事実。
町内では仮設住宅の建設が進む。「“二度あることは三度ある”。子どもたちの未来を考えると廃止するしかないのか」。そう自問しつつも原子力が日本、そして福島の繁栄を支えてきたとの思いもある。「正直、よく分からない」(文中敬称略)
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福島第1原発事故から間もなく5カ月。放射性物質による汚染は広がり、住民の健康被害に対する不安は消えない。「第3のヒバクチ」。こうも呼ばれる福島に、かつて核の惨禍を体験した長崎はどう向き合うのか。原爆投下から66回目の夏を前にそれぞれの現場を追った。