危険な任務 「放射線の影響覚悟」 折れかけた心“再生”
偶然と呼ぶにはあまりに絶妙のタイミングだった。
震災から3日後の3月14日、長崎大国際ヒバクシャ医療センターの熊谷敦史(38)ら5人は福島に入った。当初から明確な役割があったわけではなかった。だが先遣隊には長崎大大学院の放射線専門看護師養成コース1期生、吉田浩二(29)と橋口香菜美(28)もいるなど、緊急被ばく医療に詳しいメンバーがそろっていた。
■大爆発の可能性
同じ日、福島県立医科大付属病院に原子炉建屋の水素爆発で外傷を負った作業員が運ばれた。救急医の長谷川有史(43)や放射線医の宮崎真(41)らは見よう見まねで除染や治療に当たった。しかし地震発生から働きづめだった長谷川らの体力、精神力は限界にきていた。そこに追い打ちを掛けるように原子炉格納容器の破損を伴う大爆発の可能性が浮上。医師らは動揺した。
16日午前9時前、第1原発建屋の水素爆発で負傷した作業員の搬送要請が入る。現場の汚染に関する情報もなかった。「私が行きます」。手を挙げたのは吉田。全身防護服に身を包み、自衛隊のヘリコプターで患者を福島医大付属病院に運んだ。「放射線を浴びる健康への影響は覚悟していた」(吉田)。それほど危険な任務だった。
その日の夜から5人は病院の一室に寝泊まりした。爆発の恐怖と無力感から福島医大の医師は次々に”壊れた”。夜中に泣き崩れ、不安を口にする長谷川や宮崎の言葉に熊谷は黙って耳を傾けた。そして放射線の何が安全で何が危険か教えていった。こうした熊谷や吉田の姿勢は、心が折れかけていた長谷川たちを”再生”させた。
■関わりたくない
長崎大は4月16日までに延べ26人の医師や看護師、放射線技師らを派遣してきた。熊谷が3度目の福島入りした4月16日午後、医療班に1本の電話が入った。第1原発から半径20キロ圏内の南相馬市で行方不明者を捜索中の警察官が転倒し側溝の水を飲んだという。
すぐに熊谷や長谷川は治療手順を確認した。現場の空間放射線量は0・45マイクロシーベルトで、病院敷地内(2・04マイクロシーベルト)より低かった。「防護服を着たら逆に患者を不安にさせる」。橋口の提案で普段着のまま対応した。幸い内部被ばくはなかった。
処置を終え安堵(あんど)の表情を浮かべる熊谷や長谷川の横で福島医大付属病院の看護師、島田真由美(32)の表情はさえなかった。「正直言って関わりたくなかった。一番不安なのは患者だと思うが…」。線量の数値上は安全だと分かっていても、放射線に対する不安は簡単にぬぐえない。(文中敬称略)