阿武隈沈没 湾の底重なる日本艦船
真珠湾攻撃後、日本軍は勝利を重ねたが、1942年6月のミッドウェー海戦で主要空母を失い、大敗。戦局は一転する。長浦時雄(92)ら乗員約500人の軽巡洋艦、阿武隈は43年、米アリューシャン列島のアッツ島近海で交戦。その後、電波探信儀(レーダー)を装備するため舞鶴に戻る。アッツ島では日本軍が玉砕。同列島のキスカ島の撤退作戦は兵士救出に成功する。
44年10月、阿武隈はフィリピンのスリガオ海峡海戦に参加し、魚雷攻撃を受けて五十数人が戦死。補修のため駆逐艦、潮とマニラに向かう途中、約30の敵機が3方向から襲来。「至近弾で船体にボコボコ穴が開いた。機銃員が皆やられ、対空砲火ができなくなったところで直撃弾が来た」。後部から蒸気が噴出。甲板は裂け、予備魚雷が誘爆しそうになり、長浦らは木材など浮くものを海に投げ込み、一斉に飛び込んだ。
阿武隈は後部からゆっくりと沈んでいく。長浦は渦に巻き込まれないよう必死に泳いだ。潮は魚雷攻撃を避けて周回。潮のカッター(大型ボート)が阿武隈の乗員を1人ずつ海から引き上げて回る。長浦は負傷兵を助けながら板にしがみつき、沈没する艦を見詰めた。乗員の半数、戦友たちが命を落とした。「阿武隈、万歳」。海原に兵士たちの声が響いた。
生き残った乗員はマニラ湾へ送られた。翌朝、湾内にいた軍艦が敵機に魚雷2発を打ち込まれ、轟沈(ごうちん)した。阿武隈の仲間37人も乗っていたが、30人が命を落とした。陸にいた長浦はぼうぜんとした。
長浦は11月に駆逐艦、初春に配属された。1週間後、同湾内で空襲を受け、陸に逃げた。初春は沈み始めたが、途中で止まった。湾の底は初春の船底がつかえるほど沈没した日本の艦船や民間の「御用船」で埋め尽くされていたのだ。「湾に船が入れば、敵はどこからか見ていて必ず攻撃してきた。明らかに敵が優位だった。既に相当数の兵がマニラで戦死していた」
12月、事務方の補充部勤務となった長浦は「最後は波打ち際で竹やりで抗戦する」との話を耳にする。「船上で死にたい」。上官に頼み、第140号輸送艦に乗船した。
45年1月、サイゴンの港は大空襲に見舞われた。艦が傾き始めた。発電機を動かしていた長浦の近くに直撃弾が落下したが幸い不発。慌てて上甲板から陸に逃げた。生きるか死ぬか、紙一重の日々が続いた。