真珠湾攻撃 「お国のため」一心に
太平洋戦争は1941年12月8日、日本軍による米国ハワイの真珠湾攻撃で始まった。開戦から69年。当時、最前線に赴き、戦闘を体験した元日本兵たちは高齢化し、次々に亡くなっている。戦争で何があったか、を本人から直接聞く機会は遠からず失われる。3年9カ月余り続き、45年8月の長崎原爆投下に至った「あの戦争」を元兵士の記憶と今の思いからたどった。
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「お国のためにどこまで働きうるか。そればかり考えていた」。長崎市稲佐町の長浦時雄(92)は振り返る。
平戸に生まれ、長崎で育った。8人きょうだいの長男。「親は厳しかったが、稲佐尋常高等小時代は”わるくろ”だった」。卒業後は鉄工所で働き、夜は青年学校へ。武技、体技には自信があった。県庁と矢上を往復する武装行軍競争大会にグループで臨んだ際は、へたばる仲間の銃も担いで団体優勝に導いた。
「希望するところがあるか」。徴兵検査で聞かれ、胸を張った。「体にそぐう所にやってください」
37年に日中戦争が勃発。長浦は39年6月、20歳のとき佐世保海兵団に入った。3カ月後、ドイツ軍がポーランドに侵攻。第2次世界大戦は火ぶたを切った。
長浦は機関兵となり同年11月、軽巡洋艦阿武隈に乗り組んだ。上官らから「バッタ」と呼ばれる棒で訳も分からず尻を思い切りたたかれるなど、厳しい軍隊生活が本格的に始まった。阿武隈はインドシナなどに寄港。艦内にラムネ、すしなどの出店を設けて現地住民を招待したり、艦の吸水口に詰まった大量のエビを蒸してみんなで食べたりと、まだ楽しいひとときもあった。
41年11月、千島列島に赤城、加賀、飛龍など空母機動部隊を中心とした艦隊が集結。乗員約500人の阿武隈も呉から参加。長浦は電気通信、電気装置などの補修に従事する電路員として動き回った。連日、注油訓練などがあったが、何のためか分からなかった。
同月26日、米国は日本に中国やインドシナからの軍事撤退などを求める「ハル・ノート」を出した。日本は12月1日の御前会議で米英との開戦を決定。阿武隈など艦隊はハワイに向かった。「稲佐山のような波濤(はとう)」を航行。波の頂でははるか下方に味方の空母が見えた。
当直明けで寝ていた長浦は8日午前2時半ごろ起こされ、上甲板に出ると航空部隊が次々に発進していた。「攻撃ですか」。「あれは2回目だ」と上官。既に真珠湾にある米艦隊への第1波攻撃は実行され、第2波の攻撃隊が飛び立つところのようだった。「大戦争を始めた実感は湧かなかった。大砲一発、撃ったわけではなかったから」
日本軍の真珠湾への奇襲攻撃では、米兵ら約2400人が死亡したとされる。(文中敬称略)