どう話せばいいのか ありのまま子や孫に
宮崎トミホ(84)は1945年8月19日、古里の熊本・天草にいったん帰郷する。しかし、医師の調来助の誘いで再び長崎に戻り、新興善救護所で治療に走り回る。被爆地が汚れた街のように言われ、被爆者差別もあからさまな時代だった。宮崎は結婚、出産を経験したが、かわいい赤ちゃんは生後6カ月で亡くなった。その後の出産、子育ての際も常に原爆の影響におびえた。
「当時は擦れ違うみんなが、それぞれ悲惨だった」。田川博康(77)の言葉に宮崎は涙ぐんでうなずき、心に引っ掛かっているある出来事を話した。
今年8月、若者たちに被爆体験を話す機会があった。講話の後、感想を聞くと「経験していないからどうもぴんとこない」という反応。「65年もたてば、こんな感じなのかな。当時を分かってもらうにはどう話せばいいのか。こちらはつらい気持ちを耐えて話している。疑問だけが残った」
モノと情報に浸り、飢えを知らない世代。「あのころと今は価値観が全く違う。軽薄で、国の指導者さえ幼稚。壁を突き破って被爆体験を受け止める素地が今の人たちにあるだろうか」と田川。一方で「だから100人に1人でも理解してくれればそれで万々歳ではないだろうか」とも思う。
宮崎は少しでもリアルに伝わるよう、被爆時にいた病院の見取り図などを作製した。「老い先短いから。あんな爆弾は二度と使ってはいけないということを、やっぱり言い残しておきたいんです」
宮崎と別れた田川は、長崎市平野町の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に向かった。そこには亡き父母の遺影を納めている。パソコン画面に映し出された父の面影を見詰め、戦時中のある場面を思い出した。
日本軍が大敗したミッドウェー海戦で生き残った親類が自宅に来て、父に小声で話した。日本軍の戦闘機が、沈みゆく母艦のへさきに次々にぶつかり、自爆していったという内容だった。そして「日本は負けますよ」と。父は顔色も変えずにじっと聞いていた。
「軍国主義を熱心に支持した父だが、おそらく成熟した大人として非常に複雑な感情があったはずだ」。足が溶け、切断され、黙って死んだ父を思うとき、胸が強く締め付けられる。
両親の死を「プライベートな出来事」として黙してきた田川。宮崎と65年前を振り返った夏が過ぎた今、あの日からの自分の生きざまも含めて、子や孫にはありのままを話しておこうかと考え始めている。(文中敬称略)