邂逅の時
 2人の被爆体験と継承
  中

田川さんとの再会後、あらためて被爆体験を振り返る宮崎さん=長崎市石神町

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邂逅の時 2人の被爆体験と継承 中 大工のこぎりで足切断 互いに語り合い確認

2010/09/18 掲載

邂逅の時
 2人の被爆体験と継承
  中

田川さんとの再会後、あらためて被爆体験を振り返る宮崎さん=長崎市石神町

大工のこぎりで足切断 互いに語り合い確認

再会した被爆者の宮崎トミホ(84)と田川博康(77)は、互いの体験を語りながら記憶を擦り合わせていった。

宮崎は、爆心地から0・7キロの旧長崎医科大付属病院で医師の調来助の下で看護師として働いていた。原爆で病院は壊滅。負傷した多くの病院職員や医学生を治療する拠点が必要だった。幸い、調は事前に宮崎らに指示し、手術用具など医療器具を滑石の自宅に疎開させていた。

肋骨(ろっこつ)を骨折しながら救護活動に携わっっていた宮崎は被爆の翌々日の11日、同僚らと滑石へ。道端の死体は異常に膨れ上がり、ものすごい腐敗臭を放っていた。滑石の岩屋クラブ(公民館)を掃除して12日に仮救護所を開設。医学生たちは近くの畑で死者の火葬を続けた。

両親を竹の久保町で救助した12歳の田川は、時津町へ避難。滑石仮救護所の開設を知り、意識がない父、二一をリヤカーで搬送した。途中、時津方面に向かう多くの女性や子どもら避難民に出会った。先頭の憲兵が疲れ切った表情で言った。「戦争に負けた。アメリカが攻めてくる」。死のふちにある父を運ぶ田川にとって、憲兵の言葉はさまつなことに思えた。

父の足は腫れあがり、仮救護所で切断することになった。準備をする宮崎は気付いた。医療器具を疎開させる際、骨を切断する道具を入れ忘れていたのだ。慌てて近所の大工からのこぎりを借りてもらい消毒。学童用の机を並べた手術台で、調は腰椎(ようつい)麻酔した上で、ももの辺りから切断した。

数メートル離れて見ていた田川は、調の後ろ姿をよく覚えている。うめき続けていた父が叫んだ。「痛い!」。強い声が響いた。手術が終わり、寝かされた父。両脇の負傷した医学生は割れた頭のうみをうじ虫に吸われていた。

時津に戻した父は18日、意識がないまま息を引き取った。49歳だった。そして、目立った外傷のなかった母、マキも23日に亡くなった。「博ちゃん早う大きくなってね」のひと言を残して。42歳だった。

「子どもを残して死ななければならなかった母の心境を思えば、たまらない。『大きくなって』の意味は時の経過とともに広がってくる。被爆体験は多面的で複雑。くぐり抜けた者でないと分からない」

田川は宮崎との巡り合いで65年前の記憶を確認した。それは、両親を失い、焼け跡から歩みだした少年時代の「自分自身」との邂逅の瞬間でもあった。(文中敬称略)