壮絶な記憶刻み65年 握手と涙、始まる語り
1945年8月15日、原爆投下後の長崎市の滑石仮救護所。当時12歳だった同市旭町の陶器会社会長、田川博康(77)が運び込んだ父、二一(にいち)=当時(49)=は片足が壊疽(えそ)しており、手術で切断することになった。使用されたのは大工用ののこぎり。同市石神町の元看護師、宮崎トミホ(84)は、執刀した医師の調来助と手術に携わった。田川と宮崎の脳裏には壮絶な記憶が刻み込まれ、そしてそれぞれの人生を歩んできた。
長崎原爆資料館で今年3月にあった長崎平和推進協会・平和案内人の自主的な勉強会。案内人の境民子(64)から請われ、宮崎は講師として被爆体験を語った。
のこぎりの手術に話が及んだ時、案内人の山田一美(77)が反応した。「のこぎりの手術は1人だけですか」。宮崎がうなずくと、山田は確信した。「それは大学時代の友人の父親です」
8月下旬、田川と宮崎は65年ぶりに宮崎の自宅で再会した。握手を交わし、涙を浮かべる2人を見守る山田と境。やがて田川は被爆体験を語り始めた。
新興善国民学校6年だった。両親は竹の久保町で職工の手袋や衣服を再生する工場を営んでいた。田川は伯母、姉と暮らしていた鳴滝町の家の庭で被爆。爆心地から3・3キロ。4日後、両親を捜しに出掛けた。焼損した路面電車、防火水槽に頭から突っ込んだ累々たる死体。川に浮いた死体を竹ざおでつついて身内を捜す人影。異臭が、鼻腔(びこう)にこびり付いた。
再生工場近くの防空壕(ごう)でぼうぜん自失の母と、うめき続ける父を見つけた。父は被爆した際、工場のカセイソーダ(水酸化ナトリウム)の原液が片足に掛かり、肉が溶けて骨まで見えていた。
「本当は思い出したくない。声高に原爆反対と叫ぶのも嫌だ。ぼくらの体験は五感に染み付いた惨状。思い出せば、においまでよみがえってくる」
田川は被爆について口を閉じてきた。宮崎も積極的には語ってこなかった。だが、65年を経て再会した2人は、くしくも被爆を語り継ぐことについて共に考えあぐねていた。
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長崎新聞が今夏実施した被爆者アンケートでは「最近、被爆当時の体験を家族や知人、若者に話しましたか」との問いに85%が「はい」と回答。被爆者がつらい記憶を伝えようと努める姿がうかがえたが「いいえ」と答えた13%の中には、語っても伝わらないいら立ちを記した被爆者もいた。65年ぶりに巡り合った2人。その記憶と被爆体験継承への思いを見詰めた。(敬称略)