国籍 未来へ向け交流を
今年の長崎くんちの踊り町、銅座町「南蛮船」の練習風景。8月も終わりに近づき、本番まで1カ月余り。子どもたちのにぎやかなはやしと相まって、根曳(ねびき)衆の船回しにも力が入る。根曳衆を引っ張る根曳頭(がしら)の金子謙三(32)は銅座で育った韓国籍の在日コリアン2世。地元の小、中学校を卒業し、くんちの出演も3回目。「力を合わせて銅座の伝統を受け継いでいきたい」と気合が入る。
福岡県内で生まれた謙三は6歳のとき、銅座で焼き肉料理店を開く伯母、権舜琴(クオンスングム)(84)の元に母親の英子(71)らと身を寄せた。朝鮮半島南部の農村に生まれた舜琴は1931年に来日。戦時中の44年から連れ添った夫は83年に亡くなり、子どものいない舜琴にとって謙三は息子同然だ。
日本で生まれ育ち、韓国語は話せないという謙三。韓国籍であることに対し10代のころは「外国人登録証を持ち歩かないといけないし、自分は人とは違うのかな」と悩んだ。20代後半になって「国籍が違っても人間は人間。意識しても仕方ない。自然体でいようと思うようになった」と振り返る。
謙三は日本国籍の取得については「考えたことはない」と言う。苦労をした舜琴ら在日1世のこと、祖国としての韓国。「うまく表現できないが、何かが自分の中にあるのだろう」と思う。「銅座で先輩から教わったことを後輩に伝えていくのが自分の役目」と語る謙三に、舜琴は「長崎の人たちに支えられ、長崎の生活に慣れ親しんだ。日本や韓国という前に“長崎人”」とほほ笑む。
今年8月、潘基文(バンキムン)国連事務総長が現職の国連事務総長としては初めて被爆地・長崎を訪れた。舜琴は県内の韓国籍・朝鮮籍被爆者の代表として、民族衣装の白いチマチョゴリ姿で同胞の潘事務総長と懇談。舜琴は稲佐町3丁目(現光町)で、英子ら妹2人は大黒町で被爆している。
潘事務総長は爆心地公園内の長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑に献花。「核兵器のない世界こそが1945年8月9日、ここで命を落としたすべての人たちの追悼を行う最善の方法」とスピーチした。その言葉に舜琴は「二度とこういうことがあってはならない。それこそが私たち被爆者、在日1世の願い。米国や日本を恨んでも仕方がない」との思いを強くしたという。
2002年の日韓共催のサッカー・ワールドカップや、03年に日本で放送された韓国ドラマ「冬のソナタ」が火付け役となった韓流ブーム。謙三も舜琴も「両国の壁がなくなってきたと感じる」と話す。
日本と朝鮮半島の間には歴史認識の共有など依然として課題が横たわるが、舜琴は信じる。「日本とコリア(英語での朝鮮半島地域の呼称)は“兄弟”。歴史を歪曲(わいきょく)せず、互いの歴史や文化を学び合い交流を深めたら、より良い未来が築ける」(敬称略)