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ハルモニからの伝言 長崎の在日コリアン 3 戦後の混乱 差別…「悔しくて」

2010/08/24 掲載

戦後の混乱 差別…「悔しくて」

金今礼(キムクムレ)(84)=佐世保市白岳町=の夫、〓重鉉(ユジュンヒョン)=1989年に72歳で死去=の左手の薬指は骨が折れて曲がった状態のままだった。今礼は「夫は『炭鉱で受けた痛みは一生消えない』と話していた」と、自身の左手の薬指付近をさすりながら語り始めた。

重鉉は42年に今礼と結婚する前、県北のある炭鉱で働く朝鮮人労働者のリーダー的存在だった。宿舎では満足な食事も与えられず、重鉉は仲間と2人で事務所に改善を訴えた。

訴えに監督官らは「何を言うか」と2人を棒で殴りつけ、意識を失った重鉉は宿舎内にあった診療所に担ぎ込まれた。重鉉は「左手の傷はつるはしで頭を殴られそうになったのをとっさに手で防いだ際のもの」と話していたという。

「このままでは殺される」。重鉉は宿舎を脱走。幸いにも山仕事をしている朝鮮人男性に助けられ、長浦村(現長崎市)で朝鮮時代の技術を生かし歯の技工の仕事を始めた。

今礼ら朝鮮半島にいた家族を日本に呼んだのはそのころ。だが、長浦での生活は悲惨だった。食べるものはイモだけ。海を渡っても貧困からは逃れられなかった。

指が動かなくなったこともあり、仕事は続かず、重鉉は知人の誘いで、佐世保市内で防空壕(ごう)掘りなど土木関係の請負業を始めた。作業現場が変わるたびに転々とし、1年間に8軒も家を移った。

佐世保市木風町に暮らしていた45年6月28日深夜。「雨が降ったのかな」。今礼はこう思い、外を眺めると、市中心部の方角が真っ赤に燃えていた。焼夷(しょうい)弾が次々と落ち、周囲もたちまち火の海と化した。佐世保大空襲だった。

「ここにいたら焼き殺される」と、おびえる夫の妹らと必死に近くの防空壕に避難した。今礼が雨だと思ったのは米軍機がまいた油らしかった。家族は無事だったが、暮らしていた木造の長屋と家財道具はすべて燃えた。

焼け出された今礼らは、間借りした倉庫の一角で終戦を迎えた。今礼は「夫が『解放(ヘバン)』と叫びながら新聞を手にして帰ってきた。私は字は読めなかったが、朝鮮語の新聞だということは分かった。心の底からうれしかった」と振り返る。日本は戦時中、朝鮮語の使用や朝鮮の歴史教育を禁じていた。2人は“自由”と“平和”が訪れたことを家族らと手を取り合い涙を流して喜んだ。(敬称略)

【編注】〓はマダレに申の縦棒が人