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ハルモニからの伝言 長崎の在日コリアン 1 日本渡航 国も自由も奪われ

2010/08/22 掲載

日本渡航 国も自由も奪われ

「お母さん、生きているうちに帰ってくることができなくて、ごめんね」-。2000年11月、韓国中部・忠清北道の山中。両親の墓の前に立った金今礼(キムクムレ)(84)は言葉にならない思いが込み上げ「ごめんね、ごめんね」と心の中で何度も繰り返しながら、その場に泣き崩れた。“異国”に旅立つ娘を涙ながらに見送った母親との別れから半世紀余り、実に57年ぶりの“再会”だった。

「いつでも思うのは自分の国、祖国の南北統一。自由に行ったり来たりできる日が来れば…。それが頭から離れないのよ。年を取れば取るほど、もっとね」

戦後初めての“里帰り”から10年の歳月が流れた今年の夏。佐世保市白岳町の自宅で今礼は少し寂しそうにほほ笑んだ。古いアルバムを手繰る手がときおり止まる。戦後65年目の夏。「自分の国も自由も奪われ、生きるのに必死だった」。今礼はそう切り出し、半世紀以上前の記憶の糸を手繰り始めた。

1943年2月1日、今礼は初めて日本の土を踏んだ。長浦村(現長崎市)で働いていた夫、〓重鉉(ユジュンヒョン)を頼り、夫の母親や兄弟と朝鮮半島の釜山から連絡船に乗り込み、山口県下関に到着した。古里を後にする日、見送ってくれた一番上の兄は「3年したら帰ってくるんだぞ」と妹を励ました。母親は旅立つ娘に言葉も掛けられないほど泣いて別れを惜しんだ。

「朝鮮にいても、小作料を払わないといけないし、家族が生きていけるかどうかの瀬戸際だった。(日本渡航は)仕方なかった」

今礼は26年、朝鮮半島南部の農村に生まれた。半島は当時、植民地政策で土地を奪われた農民が小作人として厳しい状況にさらされていた。8歳のときに小作人だった父親が死去。母親が女手一つで子ども6人を養い生活は困窮した。今礼は学校にも通えず、日本語も朝鮮語も読み書きができなかった。

16歳になった今礼は42年、同じ半島南部出身で10歳年上の重鉉と結婚。「娘が徴用で連れていかれないように」と心配した母親らの勧めだった。重鉉も早くに父親を亡くし、家族を養うために日本に渡っていた。当時は長浦村で歯の技工の仕事をしていた。

日本式の氏名を強要される「創氏改名」で、今礼の渡航許可の書類に記された名前は「茂松美代子」。夫が名付けたもので「茂松」は夫のルーツに当たる地名だった。ようやくたどり着いた新居。「粗末な造りで小屋のようだった。周りは日本人ばかりで言葉も通じない。どうやって生きていくのか」。今礼は身も心も寒さに凍えた。(敬称略)

1910年の日韓併合条約締結から22日で100年。日本による植民地支配の下で生活に困窮し職を求める者や、徴用で連れてこられた労働者など多くの朝鮮人が海を渡った。長崎にも終戦時、6万人以上が生活していたと推定され、現在も約千人の在日コリアン(朝鮮籍・韓国籍)が暮らす。時代の荒波に翻弄(ほんろう)されてきた在日1世の高齢化が進む中、県内に暮らすハルモニ(おばあさん)の姿を通し、長崎の在日コリアンが歩んできた道のりをたどる。

(報道部・蓑川裕之)

【編注】〓はマダレに申の縦棒が人