終戦65年
 戦争遺児の思い
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終戦65年 戦争遺児の思い 下 父の面影 求め続け 生き抜いて今、平和願う

2010/08/15 掲載

終戦65年
 戦争遺児の思い
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父の面影 求め続け 生き抜いて今、平和願う

「お父さん」-。貧しかった戦中戦後、そして高度経済成長期を生き抜いた戦争遺児たちは、亡き父に今も切なく呼び掛ける。終戦から65年。年齢を重ねた県内の遺児6人に父のこと、戦後の記憶、戦争への思いを聞いた。

「赤紙1枚で父を奪われた」。田中サナエさん(75)は石炭会社を経営する父が朝早く仕事場に向かい、夜遅く帰宅する姿を覚えている。亡くなった場所はフィリピンの小さな島と聞いたが、詳しい時期や状況は分からない。「力持ちだった。父を思う気持ちは年々強くなるんです」

「教育熱心で厳しかったが、よくかわいがってくれた」と語るのは桑村幸助さん(79)。父はフィリピンで複数の理髪店を経営。桑村さんも一家で帰国する小学3年まで現地にいた。日本語がうまく話せず「スパイの子」といじめられたことも。一人で現地に戻った父は、旧日本軍の通訳を命じられた。やがて戦いは激化。逃れた山奥で栄養失調となり、命を落としたという。子ども時代、家計はかなり苦しかった。「それでも旧制中学に通わせてくれた母に感謝したい」

幼かったため、父の面影すら覚えていない人も少なくない。

鬼木堯治さん(66)が生後まもないころ、父は戦死した。フィリピンのルソン島に上陸した後なのか、海上なのかさえ定かではない。父は大学卒の国家公務員で、将来は政治家を目指していたらしい。「母にとって自慢の夫だった。戦争は人為的なもの。父はその被害者」と語る。

宮地孝敏さん(66)も父の戦死の直前に生まれ、写真でしか顔を知らない。父の死後、生活は困窮。電気を止められた時、母が自分を抱いて号泣したことを今も鮮明に覚えている。

「背が高く、かっこよかったよ」「高跳びの選手で足が速かった」。高下八重子さん(70)は、近所の人から生前の父のことを聞くたびにうれしかった。国から返還された骨つぼには石ころしか入っていなかったという。「石が入っていたのだから死んではいない」と母はしきりに言っていた。「戦争があったこと自体が忘れ去られようとしている。父は何のために死んだのか。語り継ぐことが大切」と感じている。

平野輝さん(69)は「父がいてくれたら喜びも悲しみも分かち合えるのに」と思って生きてきた。戦死したのは3歳のとき。写真を見ても父との思い出が浮かんでこない。17歳で実家の農業を継いだ。「親を亡くして本当に苦労した。戦争は二度と繰り返さないでほしい」と願う。

亡き父の無念と悲劇、苦難をかみしめる戦争遺児たち。真の平和を希求しながら今年も静かに終戦記念日を迎えた。

【編注】「高下八重子」の高は山の下に高の口が目の上と下の横棒なし