石を形見代わりに 「きちんと振り返るべき」
海を見下ろす高台の墓地。末継輝雄さん(70)=長崎市香焼町=は月に数回、町内にあるここを訪れ、戦死した父と女手一つで自分らを育ててくれた母の墓に真新しい花を供えて手を合わせる。
末継さんに父の記憶はない。2歳だった1942年秋に出征したからだ。そして44年12月6日に東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で戦死した。31歳だった。遺骨は戻らなかった。
南串山村(現雲仙市)で暮らしていた末継さん一家は大黒柱を失い、戦後の生活は困窮を極めた。
母は幼い3人の子どもを育てながら、農業に精を出した。わらぶきの屋根からは雨が漏れた。末継さんは父の古着を破れても着続けた。学校に弁当を持って行けず、昼休みは校庭で遊んだ。小学2年のころから畑の草むしりを手伝った。わずかな土地を家族で耕し、芋や麦を栽培。食料にしたり、村の中心部にある商店街まで運んで売った。
「とにかくひもじかった。戦争さえなければ、父が生きていれば、と何度も考えた」と振り返る。
中学卒業後は、三菱造船技術学校を経て三菱重工長崎造船所に勤務。母を長崎に呼び寄せて一緒に暮らした。年齢を重ねるにつれて「父が亡くなったニューギニアにどうしても行きたい」と思うようになり、85年に国の遺骨収集事業に参加。父は進軍の途中で部隊についていけなくなり、バロンという町で亡くなったとみられることが分かった。
3度目の参加となった91年、遺骨収集の休みを利用してバロンの地を初めて踏んだ。父の遺骨は発見できなかったが、発掘作業をした場所にあった石を形見代わりに持ち帰った。ガラスの容器に入れて自宅の仏壇に大事に保管している。
遺骨収集を通じ「戦争は二度と起こしてはならない」との思いを強くした。「どうして戦争に至ったかをきちんと振り返るべきだ。歴史を踏まえることで、戦争をしないための教訓が得られるはず」と末継さん。戦争を知らない若い世代には「今の平和な社会は戦争で亡くなった人の苦労の上にあることを知ってほしい」と願う。
これまでの人生を振り返り「つらい思いもしたが、父のように戦場で命を落とした人々も苦しかっただろう」と話す。戦後の厳しい生活を支えてくれた母は今年2月、93歳で生涯を終えた。「苦労も多かったが、何とか幸せな人生を送ってもらえたのではないか」。盆を迎え、父にはそう報告できそうだ。