教え子と孫の思い 読み継がれてほしい
〈生々流転、しなののくにの落ち葉である〉
松尾あつゆきは1948年5月、芹沢とみ子と再婚。「新天地」で心を癒やそうと翌年、本県を離れ、遠く長野県へ移住した。
あつゆき研究者で俳人の竹村あつお(76)は、あつゆきの屋代東高(現屋代高)勤務時の教え子だ。
竹村は、沈着さと強い意志が交錯するあつゆきの人柄に傾倒し、晩年まで交流した。2008年には恩師をしのび、あつゆきの全句とエッセーなどを編集した「花びらのような命」を出版した。
あつゆきには1952年から65年まで実に約13年間、「層雲」への投稿を取りやめた空白期がある。
竹村は以前、とみ子に日記の閲覧を頼んだが断られた。「空白期に何があったのか」と竹村は考え続けている。日記に触れたら、あつゆきへの理解はさらに深まるだろう。
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「層雲」同人の吉岡憲生(82)=長崎市夫婦川町=は戦前、長崎商業学校(現長崎商高)であつゆきの教えを受け、後に俳句の指導も受けた貴重な存在だ。
「松尾先生は寡黙、誠実かつユーモラスな人。非常に親しみを感じた」と懐かしむ。
あつゆきは61年、松代高を定年退職し長崎へ帰郷。72年、長崎商の教え子の尽力で句集「原爆句抄」を出版した。吉岡は句集を読んで感動し、75年「層雲」へ入門した。
再会した恩師は変わらず寡黙だった。句会でも原爆のことは語らなかった。吉岡自身も被爆者だ。師の胸中をおもんばかり、「あの日」のことは聞かなかった。
「私は、先生の日記は読めないと思う」と吉岡は言う。師の想像を絶する悲嘆と孤独を追体験するのは、あまりにもつらい。
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あつゆきの孫平田周(52)は、あつゆきの長女みち子が結婚して産んだ3人きょうだいの長男だ。
平田は時折あつゆきに英語を教わった。もの静かな祖父で、原爆の話も聞いた記憶がない。一緒に墓参りへ行くと、空を見上げメモ帳にペンを走らせていた。
平田は昨年死去したとみ子から、あつゆきの遺品を受け継いだ。日記をはじめ句帳、書簡、色紙もある。日記を読むと、寡黙な祖父が感情を率直につづっており、衝撃を受けた。
母みち子は85年、白血病のような症状を呈して55歳で早世した。語り部を務め、修学旅行生らに悲惨な体験を包み隠さず話し、被爆者の証言集「長崎の証言」へ寄稿もしていた。核廃絶は、あつゆき・みち子父子の強い願いだった。
平田はいま、自宅の一間を使い、あつゆきの遺品を展示する記念館を開設したいと考えている。人々の魂を揺さぶる祖父の原爆句が、いつまでも読み継がれてほしいとの思いからだ。
「松尾あつゆきの孫、そして母の息子として、自分にも使命があるのではないか」。平田の中にも静かな決意が芽生えつつある。
(敬称略)