死を無にするな! 魂揺さぶる名句生む
松尾あつゆきの鬼気迫る原爆句はいつ、どのように生み出されたのか。日記を追ってみた。
あつゆきは1946年2月20日に42句、3月1日に39句を「層雲」へ投稿している。日記には次の記述が見える。
「層雲復刊につき二月十五日分及三月一日分〆切二、三日後いずれも速達にて投稿」(3月14日)
その時投稿した句の内容は、佐々へ移っての孤独な生活を表現したものだ。妻子の爆死そのものを扱った句はない。
「きょうは午前中句の整理をする。まだ原子爆弾当時のは、どうしても手がつかぬ」(3月15日)「放哉は人間を物体と見ることによってその目を開いた。私は、そのようにハッキリ定義できる目を持たぬ。自分ながら、憐れである」(3月19日)
過酷な体験を反すうし、客観視しなければ良い句は作れない。だが、心の整理がそう簡単に付くはずもない。あつゆきは焦る。
「人の魂を揺りうごかすような句を作りたい」「他人の地位や富を時々うらやんだり、他人の家庭や幸福にとらえられたりする自分を見出して、ハッとする。ばかな自分だ。それでどうして他人の魂を揺りうごかすことができよう」「千代子、海人、宏人、由紀子の死を無にするな!」(3月30日)
あつゆきの原爆句が長崎で広く知られるには、55年に出版された「句集長崎」に33句が掲載されるまで待たねばならなかった。
その後も句の推敲(すいこう)はなかなか進まなかった。しかし、ついに一念発起する時が来る。きっかけは、やはり「9日」だった。
「きょうは九日、しきりに妻子のことをおもう。私のことを千代子は泣いているであろう。海人、宏人、由紀子、幼いいのち、…泣け、泣け」「原子爆弾の句の整理ができないでいたが、きょうから是非やりとげるぞ。当時のその日その日のつもりで」(5月9日)
そして6月9日。あつゆきは「層雲」に原爆句35句を投稿する。
「雨。六時頃おきて冷飯たべて、そのまま机にむかい苦吟。きょうは九日であるし、感無量。二時頃までかかり、三十五句にまとめて発送の運びとなる」
この時、生み出したのは〈こときれし子をそばに、木も家もなく明けてくる〉〈ほのお、兄をなかによりそうて火になる〉〈なにもかもなくした手に四まいの爆死証明〉など今なお人々の魂を揺さぶり続ける数々の名句だった。
あつゆきは「まず運命を共にした長崎の人々に見てもらいたい」と出来上がった原爆句を文芸誌「長崎文学」へ送った。だが連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で発表禁止になってしまう。
「帰ると、長崎文学から原子ばくだん句稿は検閲の都合上のせられぬから別の原稿頼むという」(7月8日)
あつゆきの原爆句が長崎で広く知られるには、55年に出版された「句集長崎」に33句が掲載されるまで待たねばならなかった。
(敬称略)