ほんとうの淋しさ 「愛なき世」の苦しみ
みち子は長崎へ去った。よく雨が降る寒い山村で松尾あつゆきの孤独な暮らしが始まった。日記には「淋(さび)しい」という言葉が頻出するようになる。
「独りくらすのはほんとに淋しい。ことに時計が止まったりしてシーンとなると気が狂いそうだ」(3月18日)「弱い、弱い。誰からもうてあわれぬのも淋しい。世の幸福な人たちの邪魔にならぬようどこか片隅にそっと生きているより仕方がない」(3月19日)
地獄のような孤独。あつゆきはのたうち回り、孤独について自問自答する。
「今私は、千代子失いし後、全く孤独であるという意味は、この世界に、ほんとうに私を理解し、愛するものがいないことで、ここにほんとうの淋しさがある」「失った悲しさ、無い悲しさ。やはり泣くより外ない。放哉、山頭火等の、捨てた悲しさに比べると、奪われた悲しさはひとしおである」(同)
考え抜いて、たどり着いた結論は「愛なき世」の苦しみだった。
「今まで自分は、千代子の愛だけで生きていたことを知りがくぜんとする。それだけが真実で、千代子亡き今は、ほんとうになんにもない。世の中にただの一人も真実に私を愛してくれるものは無いのだ」「私のしんの淋しさはこれであろう」(3月29日)
18歳で嫁いできて、18年間連れ添った千代子。長い間しゅうとに仕え、4人の子を産んでくれた最愛の妻は、何のことわりもなく原爆で奪われた。それでも自分は生きている。あつゆきは記す。
「死ぬことは不幸でない。不幸は生きることの中にある。私の不幸は最悪のようにみえる」(4月18日)
日記で見逃せないのが国家に対する激しい怒りだ。
「日本国なんてものはウツ潰れてくれることを祈る」(5月4日)「どろぼうなどは横行歓迎。思え、昨年私の家財を大々的に白昼徒党をくんで盗んだのに対して日本国はいかなる保障をしたか」(5月20日)
あつゆきの長野時代の教え子で俳人の竹村あつお(76)によると、あつゆきは生徒の前では決して政治的な話題は口にしなかったという。
それは教師としての矜持(きょうじ)だろう。だが日記の激しい言葉はあつゆきのまぎれもない本音だ。
あつゆきは45年8月15日、伊良林小の校庭で自ら妻の遺体を焼いている。そこで日本降伏を告げる玉音放送の知らせを聞いた。手記「爆死証明書」は次のようにつづる。
「涙がポタポタ落ちてくる。今になって降伏とは何事か。妻は、子は、一体何のために死んだのか。なぜ降伏するなら、もっと早くしなかったか。今度の爆弾で自分達の命が危なくなったから、降伏したのではないか」
長崎原爆資料館(平野町)前に立つあつゆき句碑には、次の句が刻まれている。
〈降伏のみことのり 妻をやく火いまぞ熾(さか)りつ〉
(敬称略)