生きる希望がない 次女の誕生日に慟哭
佐々の山村で、松尾あつゆきと長女みち子の新たな生活が始まった。だが原爆で奪われた妻子のことが忘れられるはずもない。日記には、次のような夢の記述がたびたび出てくる。
「久しぶりに千代子達の夢を見た。演芸会のようなのが催されている。その中に、出演者として千代子と宏人と由紀子が出てきた。宏人は髪を伸ばしていて、あの世での生活ぶりがうかがわれるようだ」「覚めても、千代子達の顔がはっきり残っている。彼等が、あの世で楽しく一緒に暮らしているようで、うらやましいくらいだ」(12月3日)
あつゆきは3歳で長崎の親族へ養子に出された。佐々は生家がある故郷とはいえ、傷心を癒やしてくれるなじみ深い土地ではなかった。ある朝、娘が訳も言わず泣いているのを見て、あつゆきは動揺する。
「私自身にしても、始末のつかぬほど悲しくなることがある。いっそ気狂いになったら、とさえ思い、いっそ死んだら、と思ったりする。その度ごとに、みち子のことを考えて、心を鎮める。ただ、『みち子のために』というのが、現在私が生きている目標である」(12月5日)
年が明け、1946年1月23日。母の乳にすがり7カ月で死んだ次女由紀子の誕生日だ。あつゆきの日記は慟哭(どうこく)する。
被爆直後に記した松尾あつゆきの日記
「去年の今日は雪がふっていて由紀子と名づけたが、ほんとに感慨無量。ほとんど、生きている希望もないほどだ。ああ」「あまり由紀子のことを思い詰めたためか、脳貧血を起こして一時人事不省となる」「この傷心は、句を作ることで慰められるだろうか。やはり、句に生きていた人たちは偉い。私も、結局、ここに生きるよりほかに、生き道は見いだせない」
このころのあつゆきには、みち子の存在だけが心の支えだった。
「立春。あたたかいのでみち子の髪を洗ってやる。寒いときには洗えないと心配して日を選んだのであるが、その髪の少なさ、洗って拭いてやるともう乾いてしまっている」(2月4日)
だが、寂しいながらも親子2人で肩を寄せ合う生活も終わりを告げる。みち子が復学するため、長崎で下宿生活をすることになったのだ。
2月5日、あつゆきは娘の移動証明をもらいに自治会長宅へ行く。そこで子を連れた女性を見て強烈に妻子を思い出す。
「宏人を思い、胸が切ない。又、千代子を思う」「生きる希望ほとんどなし。みち子が生きているから生きているだけ。淋しい。放哉や山頭火等のさびしさがやっと分かってきた」
「放哉」は尾崎放哉(ほうさい)、「山頭火」は種田山頭火のことだ。〈咳をしても一人〉(放哉)など孤独をまとう句を作り続けた自由律俳人の先達にわが身が重なった。
みち子は8日、長崎へたった。あつゆきの孤独はますます深まってゆく。
(敬称略)