すべてを奪われて 自らの手で妻子焼く
6月中旬。「あつゆきの日記類を遺族が保管している」と関係者から聞き、あつゆきの孫で学習塾経営の平田周(52)=西彼長与町岡郷=と会った。
平田は「家族や親族にかかわるプライベートな事柄も書いてある。見せることには若干迷いがある」と言いながら、内容の一部を黒く塗りつぶした日記のコピーを手渡してくれた。
寡黙なあつゆきは原爆について周囲にほとんど語らなかった。それだけに「肉声」がつづられた日記は実に貴重といえる。
日記の内容を紹介する前に、あつゆきの人物と被爆体験について触れる。
あつゆきは北松佐々町生まれ。仕事は英語教師。戦前は市立長崎商業学校(現長崎商高)など、戦後は佐世保二中(現佐世保南・北高)で教壇に立った。1949年、長野県へ移住し、屋代東高(現屋代高)と松代高に勤務した。
俳句は五七五の定型や季語にこだわらない自由律に傾倒した。25年ごろ、荻原井泉水(せいせんすい)主宰の結社「層雲」に入門。深みのある叙情的な句で頭角を現し、42年に層雲賞を受けた。
私生活では23歳で結婚し4子に恵まれた。だが45年8月9日午前11時2分、長崎に投下された原子爆弾で文字通りすべてを奪われてしまう。
句集「原爆句抄」(72年)収録の手記「爆死証明書」などによると、あつゆきは当時勤務していた長崎市大浦の食糧営団事務所で被爆した。
夜、城山の市営住宅(現若草町)に帰り着くと、庭に掘った防空壕(ごう)に大やけどを負った12歳の長男海人が寝ていた。夜が明け、家から少し離れた草原で、4歳の次男宏人と7カ月の次女由紀子を連れて動けなくなっている36歳の妻千代子を見つけた。
宏人と由紀子は息絶えていた。宏人は木の枝をしゃぶり「うまかとばい、さとうきびばい」とうわ言を言いながら事切れ、由紀子は母の乳に吸い付き死んでいった、と妻が話した。
海人も10日、弟妹の後を追うように死んだ。あつゆきは倒壊した家の前に3人の子の遺体を並べ、火を付けた。やがて妻もしきりにうわ言を言うようになり、13日に息を引き取った。
終戦の15日、あつゆきは妻を焼く。彼に残されたのは、唯一生き残った16歳の長女みち子だけとなった。
あつゆきの代表作として知られる次の句は、彼のあまりにも悲惨な体験を何よりも物語る。
〈なにもかもなくした手に四まいの爆死証明〉
(敬称略)