被爆地の輪郭
 核廃絶の潮流の中で 下

平和運動などに携わる長崎側(正面)と広島側の関係者が出席した合同会議=6月26日、広島市内

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被爆地の輪郭 核廃絶の潮流の中で 下 広島と長崎 小異残し大同につこう

2010/08/08 掲載

被爆地の輪郭
 核廃絶の潮流の中で 下

平和運動などに携わる長崎側(正面)と広島側の関係者が出席した合同会議=6月26日、広島市内

広島と長崎 小異残し大同につこう

米国は1945年8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下。当時、広島で約14万人、長崎で約7万4千人が殺され、その後も多くが亡くなった。

投下の順番、死者数の違いなどは、両被爆地の関係性にもさまざまな形で影響した。反原爆運動は過去、広島がけん引、長崎が追随する構図で「怒りの広島、祈りの長崎」のイメージも固定化した。被爆地としての国際的な認知度も広島と比べ長崎が低い。そして両被爆地の平和運動に密接な連携はない状況だ。

長崎の平和活動の中心人物らが6月26日、広島に向かった。広島の平和活動家から合同会議の呼び掛けがあったからだ。長崎側は元長崎大学長の土山秀夫、非政府組織(NGO)代表の朝長万左男、被爆者団体の山田拓民、長崎の証言の会の森口貢、在外被爆者や高校生を支援する平野伸人、大学准教授の芝野由和の6人。広島側からは被爆者団体の出席はなかったが、元広島市長の平岡敬、広島平和研究所長の浅井基文、NGO代表ら10人。

広島側がこう切り出した。「今、平和運動を考えるとき、長崎から学ぶべきことが多いのではないか」

長崎ではこの10年間、市と市民が協力して開く国際シンポジウム「地球市民集会ナガサキ」を継続的に成功させ、高校生1万人署名活動も歩みを重ねて高い評価を得ている。平野は背景として、原水爆運動の分裂後に始まった「ながさき平和大集会」の成果を挙げる。立場の違いを超え、誰でも参加できる集会。89年の初開催時、被爆医師の故秋月辰一郎氏らが唱えたのが「小異を残して大同につこう」だった。

会合では、土山や朝長らがこの言葉の重要性を説明した。互いの相違はそのまま残し、一致できる点で行動する。この理念は今、長崎の平和運動の底流に流れ、力の発揮を促してきたという。実際、核に関する諸問題が発生すると、被爆者5団体やNGOの反応は広島より早い。連携が密な証拠だ。

広島側の平岡は、広島市の20年夏季五輪招致に触れ「広島では反対の声も上がらない。反応が鈍い」と語った。別の出席者も「広島は諸団体が一緒に考える場がないから声がまとまらず、広島市長が勝手に進めてしまう」。都市の規模が大きく平和団体も多い広島だが、方針の違いや過去の経緯をいまだに引きずっている面もある。

被爆65年の今年、核兵器廃絶を目指す世界的潮流の兆しが強まる中、広島、長崎では被爆地同士で学び合い、結び付こうとする模索が始まった。双方の被爆者や市民が連携して声を上げれば、核保有国や核問題に弱腰の日本政府に対する発信力も高まる。

「小異を残し、大同につこう」

二つの被爆地で、この言葉の重みも一層増してくるはずだ。(敬称略)