被爆地の輪郭
 核廃絶の潮流の中で 上

記憶を手繰りながら遺骨を拾い集めて埋めた場所を探す池田さん=長崎市内

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被爆地の輪郭 核廃絶の潮流の中で 上 朽ちた死没者の声 米、国連に訴え届くか

2010/08/06 掲載

被爆地の輪郭
 核廃絶の潮流の中で 上

記憶を手繰りながら遺骨を拾い集めて埋めた場所を探す池田さん=長崎市内

朽ちた死没者の声 米、国連に訴え届くか

8月2日、東本願寺(真宗大谷派)長崎教務所の原子爆弾災死者収骨所。積み重ねられた箱の一つが開けられると、赤茶けた遺骨が詰まっていた。頭蓋(ずがい)、大腿(だいたい)の骨-。65年前の9日午前11時2分に名前も住所も消された無数の長崎市民が、この収骨所にいる。

原爆投下で浦上一帯は壊滅。門徒らは放置された遺体、遺骨を集めた。同教務所「非核非戦」の碑の説明板に状況を記している。「悪臭鼻をつく屍(しかばね)が、道路の脇や川底などに夏日に晒(さら)されて累々と横たわって」「川の中に打ち重なったままの死体、あるいは半分は腐って半分は白骨になった者など途方もない数」-。

尊厳を奪われ、どれだけの人が朽ちたのか。収骨所には1万~2万体の遺骨が納められ、毎月9日に法要している。「互いを傷つける人間。亡き人は共に生きてほしいと呼び掛けているはず」。教務所の担当者はこう話す。

市調査課によると、1945年末までの原爆死没者は当時の市の人口約21万人の3分の1の7万3884人(推計)。身元確認は3万2054人にすぎない。平和公園にある市の祈念堂には遺骨8962柱を安置している。

「ここら辺に埋めた」。原爆できょうだい5人を亡くした被爆者の池田早苗(77)は、市内の高台に当時埋めた無縁仏の行方が気になっている。今の三芳町付近の国鉄用地は、爆死者の焼き場と化し「骨が大量に散乱しとった」。町内会が総出で拾い集めた。子どもだった池田も参加した。埋めた場所は今、墓地になっているが、あの遺骨はどこにいったのか。市や寺、関係者に聞いても分からない。

池田は5月、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ初めて渡米。「原爆被害はとても言い表せないが、死んだ被爆者の無念を伝える」。オバマ米大統領の「核兵器なき世界」への期待もあった。青い目の若者たちは涙を浮かべ、証言を真剣に聞いてくれた。だが、米国メディアも米国政府も被爆者を無視した。

「地面の下にも爆死者がうずもれているはず。だが米国は原爆投下を正当化し、被爆者にさえ向き合わない。国連も放置してきた」

5日、爆心地公園。目の前で潘基文国連事務総長が核廃絶を訴えている。池田はその向こうの原爆落下中心地碑を見詰めた。

◇ ◇

安全保障と経済競争、核テロの脅威など複雑に絡み合う国際社会。NPT再検討会議で、各国は核廃絶に合意しながらも核保有国の圧力で具体的な廃絶の行程確認は先送りした。日本政府はNPT未加盟のインドと原子力協定交渉に踏み出した。一方、潘国連事務総長や核保有国代表の被爆地への式典出席、ビキニ環礁の世界遺産登録など新たな動きも出てきた。核廃絶につながる道を探しながら被爆地を歩いた。(敬称略)