浦上に生きて
 胸に刻む歴史 6(完)

永遠に

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浦上に生きて 胸に刻む歴史 6(完) 記者の思い(報道部・村田傑人) 祖母の背に見た祈り

2010/08/05 掲載

浦上に生きて
 胸に刻む歴史 6(完)

永遠に

記者の思い(報道部・村田傑人) 祖母の背に見た祈り

「祈りの長崎」といわれる。目立つことを避け、祈りを通じて神に平和を願う浦上信徒を指す言葉といえるだろう。祈るだけで運動をしないという皮肉を込めて語られることもあるが、浦上天主堂のそばで生まれ育ち、物心つく前からカトリック信徒の私はその姿勢を批判する気になれない。祈りこそ浦上信徒の表現方法と思うからだ。

その考えは昨年2月、92歳で亡くなった祖母の姿に影響を受けている。祖母は日曜だけでなく、平日も毎朝ミサに足を運んだ。家に帰ってからも正午と午後6時に祈り、就寝前にも数十分かけ、ロザリオを手に祈りをささげた。まさに生活が祈りと共にあった。カトリックの教えや信徒としてどうあるべきかを教わった記憶はない。ひたすら祈る後ろ姿が目に焼きついている。

足腰が弱り、ベッドに横になる時間が長くなっても、枕元に置いたロザリオを手に取り、祈っていた。自分では何もできないほど衰えたとき、「祈りもできんごとなってしもうた」と悲しげに話す姿に、心身に染み付いた信仰の深さをみる思いがした。

祖母は入市被爆者だった。原爆が投下されたとき、私の父を連れて長浦に疎開していて難を逃れた。家族や親せきを多く亡くし、岡町の家も跡形なく破壊されたが、恨みや怒りの言葉を聞いたことはなかった。多くを語らず、背中を丸めていつも祈っていた。

祖母が亡くなる1年半ほど前、私に長女が生まれ、生後5カ月で洗礼を受けさせた。最近特に、信仰を守り継ぎたいと思うようになった。カトリックの教えが生きる上での重要な指針を示してくれるという理由もさることながら、祖母を含め先祖が残してくれた信仰という遺産を子孫に継承する使命を感じるからだ。

被爆から65年がたち、かつて田畑ばかりだったという浦上も都市化して、原爆の痕跡を見つけるのは難しくなった。被爆者の高齢化が進み、数十年後には確実にいなくなる。35歳となった今、わが家の被爆体験もまた子孫に語り継ぐことが責務だと感じている。