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浦上に生きて 胸に刻む歴史 5 被爆マリア像 悲惨さ無言で訴え

2010/08/04 掲載

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被爆マリア像 悲惨さ無言で訴え

浦上天主堂の被爆マリア像は5月、原爆投下国の米国に初めて渡った。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて訪米したカトリック長崎大司教区の高見三明大司教がニューヨークでのミサなどで披露し、市民に戦争や原爆の悲惨さを無言で訴え掛けた。

焼け焦げたほお、空洞になった瞳-。今では核兵器被害の象徴としてよく知られる被爆マリア像だが、光が当たるようになったのは最近のことだ。

浦上出身の神父が原爆で倒壊した旧天主堂のがれきの中から見つけ出し、北海道で長年保管。1975年に純心女子短大(現長崎純心大)が預かった。85年にはバチカンでの原爆展で展示され、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世も目にした。しかし、一般的にはさほど注目されることはなかった。

90年に浦上天主堂に戻ったが、当初は敷地内にある信徒会館の被爆資料展示コーナーにほかの資料と一緒に置かれていた。預かっていた長崎純心大の片岡千鶴子学長は「関心を持ってもらいたいと思いながら、なかなかうまくいかなかった」と当時を振り返る。

転機は98年に訪れた。日本画家の故平山郁夫氏が画文集を出版。この中に被爆マリア像も描かれていた。全国紙の1面でも取り上げられるなどして一気に知れ渡った。2000年にはチェルノブイリ原発事故で被害を受けたベラルーシ共和国で展示され、海外での認知度も上がった。

浦上天主堂南側の被爆マリア小聖堂は被爆60周年の05年、既存の小聖堂を改修して完成。信徒らの発案で祭壇や天井は被爆前の旧天主堂を再現した。当時の主任神父で、建設を提案した平野勇神父(73)=現カトリック鹿子前教会=は「着任時、被爆マリア像は司祭館(神父の住居)に置かれていた。公の場に出して、被爆マリア像の思いを訴えたかった。原爆の苦難を風化させてはいけないと思った」と振り返る。

被爆マリア像は今年4月、カトリック長崎大司教区の巡礼団によってスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカへ渡った。現地にも教会への爆撃で頭部だけが残ったマリア像があり、二つが並んで戦争の悲惨さを訴えた。巡礼団に参加した浦上天主堂の小島栄主任神父(72)は「一目で原爆の恐ろしさを感じさせることができ、見る人に訴える力は大きかった」と振り返る。

5月に被爆マリア像を携えた高見大司教から長崎訪問を要請された潘基文国連事務総長は5日、浦上天主堂を訪れ、被爆マリア像の前で記者会見に臨む。平和を願う浦上信徒の思いが“無言の証言者”を通じて世界に伝わる日が近づいた。

【編注】「高見三明大司教」の高は口が目の上と下の横棒なし