再建 原爆前と同じ教会を
浦上小教区は信仰の拠点である浦上天主堂を原爆で失ったが、原爆投下翌月には浦上第一病院(現聖フランシスコ病院)を間借りして日曜のミサを再開した。
1946年12月には天主堂の敷地の一角に仮聖堂が完成。復興に向けて歩み始めた。信徒の深堀繁美さん(79)=長崎市本尾町=は「戦争が終わり、信徒は食うや食わずの生活だったが、祈りの家を大事にする気持ちはあった。原爆で打ちのめされても、多くの信徒は信仰を捨てなかった」と振り返る。
旧天主堂の遺構については長崎市の原爆資料保存委員会が保存を要望したが、一部を爆心地公園に移設し、ほかは撤去。59年11月にコンクリートむき出しの新天主堂が完成した。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産になった広島の原爆ドームを引き合いに、遺構を残さなかったことを惜しむ声は今も聞かれる。
元の場所に建て直した理由について、長崎純心大の片岡千鶴子学長は「庄屋屋敷跡にこだわりがあったのではないか。仮聖堂は小さく、信徒たちは何よりも先に教会がほしかった。被爆前と同じ教会を再建する考えだったと思う」と説明する。
結実
結実
庄屋屋敷跡へのこだわり-。浦上四番崩れとその後の「旅」で苦難を味わった浦上の信徒は1873(明治6)年に禁教が解かれ、荒れ果てた古里に戻った後、かつて踏み絵をさせられた庄屋屋敷を買い取って仮教会とした。そこは信徒にとって原点ともいえ、場所を変え難かったことは容易に想像できる。
天主堂は1980年の改修工事で旧天主堂と同じようにれんがをまとった。翌年2月、歴代のローマ法王では初めて来日したヨハネ・パウロ2世が訪問。ミサを行い、修道女との集いにも参加した。
ヨハネ・パウロ2世は長崎訪問を前にした広島でのスピーチで「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。広島と長崎は、人間が信じられないほどの破壊を行うことを思い起こさせる不幸な運命を負わされた都市です」と平和の実現を呼び掛けた。
原爆で妻と母を失った信徒の深堀達雄さん(95)=長崎市上野町=は「パパ様(ローマ法王)が原爆のことを気に掛けて、浦上に来てくださった。感激した」と当時を振り返る。松山町の長崎市営陸上競技場で行われたミサでは会場外の警備隊長を務めた。大雪の中、コートもマフラーも身に着けていなかったが、寒さは感じなかったという。