浦上四番崩れ 先祖の「旅」跡たどる
原爆によって浦上の信徒が受けた苦難は「浦上五番崩れ」ともいわれた。
「崩れ」とは、禁教下の江戸時代にあった検挙事件を指す。1790(寛政2)年の一番崩れから、1867(慶応3)年の四番崩れまであった。原爆は殉教者を出した宗教弾圧に続く過酷な経験だった。
浦上の信徒は禁教時代、表向きは仏教徒を装いながら、キリスト教の信仰を伝承。1865年、開国後に建てられた大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父に信仰を告白した。この出来事は「信徒発見」と呼ばれている。二百数十年間待ち続けた神父から信仰について直接学ぶようになった信徒らは67年に死者が出た際、仏教形式での葬儀を拒否。寺と縁を切ると庄屋に申し出た。これをきっかけに、最後の弾圧事件となる「浦上四番崩れ」が始まる。
処分が決まらぬうちに江戸幕府が倒れ、明治政府が成立しても禁教政策は変わらず、浦上の信徒約3400人が全国の20藩に流刑となった。信徒が「旅」と呼ぶ苦難は禁教令が廃止される73年まで続き、この間に600人余りが命を落とした。
信徒の山田一俊さん(63)=長崎市上野町=の先祖も「旅」の経験者だ。山田さんは子どものころ聞いた先祖の苦難を詳しく知ろうと、十数年前から文献などを調査。父方の曾祖父やその両親が金沢に流されたことや、母方の先祖も鳥取に流されたことを突き止めた。
さらに今年3月、信徒の仲間とともに、流刑地の一つだった山口県萩市で浦上信徒が埋葬されたとみられる竹やぶの発掘を始めた。週末を利用して長崎から通い、約2カ月かけて数々の人骨を発見した。今後は追悼のための場所を整備する構想を描いている。
「苦難を経験した浦上信徒をとむらいたい」と話す山田さん。先人の揺るがぬ信仰が禁教令を廃止するきっかけになったことについて「浦上の信徒がいなければ、日本にはいまだに信教の自由がなかったかもしれない。苦しかっただろうが、その一生は無駄ではなかったはず」と思いをはせる。
6月中旬に浦上天主堂であった信徒の研修会。長崎純心大の片岡千鶴子学長が浦上の歴史について講演し「先祖の信仰の軌跡を研究しながら、何がメッセージとして残されているか勉強しなければならない」と呼び掛けた。
5年後の「信徒発見」150周年に向け、現代の信徒は自らの信仰を見つめ直そうとしている。