伝える 心に添い命を描写
今月9日、写真家、黒崎晴生(75)は20年以上、被写体として撮影を続けている被爆者夫妻の自宅にいた。
内田保信(81)と妻、美喜江(81)=長崎市西小島2丁目=。16歳の時、家野町の友人宅(爆心地から1・4キロ)で被爆した内田の左腕には、今もこわばったケロイドが残る。あの日の夜、一緒にいた友人は「母ちゃん」と泣きながら死んでいった。無念な思いで息絶えた友人の死、傷ついた人々が猛火に追われ水を求めてさまよい歩いた地獄のような光景を決して忘れない。
「核兵器をつくったのは人間。だったら、それを人間の手でなくすことは必ずできる」。内田は、そう確信している。美喜江も思いは同じだ。黒崎はそうした内田の語り部活動や反核運動、くも膜下出血後のリハビリ生活など、今を力強く生きる夫妻の姿にカメラを向け続けてきた。黒崎にとって2人は「原爆で深い傷を背負いながらも、それにめげず『凜(りん)として生きる』被爆者」だ。
銀行勤めだった黒崎が日本リアリズム写真集団(JRP)に入会した1967年夏以来、長崎で写真に記録してきた被爆者は150人を超える。日常の営みや平和祈念式典での祈り、核実験への抗議の座り込み、国に原爆症認定を求めた裁判闘争などで垣間見た一瞬一瞬の表情-。写真に描写したその一人一人の生き方を通して、核廃絶を訴えてきた。大切にしてきたのは撮影技法へのこだわりではなく、被爆体験のない自分がいかに被爆者と同次元に立ち、被写体の気持ちを引き出し得るか、だ。そして何より、写真が訴える力を信じてきた。
黒崎は思う。写真は被爆者と共同で作り上げたものだ、と。その一枚一枚を手に、美喜江が言った。「被写体の気持ちに入り込み、人情の機微に触れた映像。今まで続けてこられたのは被写体との信頼関係があったからこそと思う」。内田が言葉を継いだ。「この人も(気持ちは私たちと同じ)被爆者ですよ」。2人の会話を、黒崎はかみしめるように黙って聞いていた。
昨年11月、黒崎は長年連れ添った被爆者の妻、美千子(74)=当時=をがんで亡くした。少女時代から絵が好きで、自身の被爆体験などを題材にした絵本2作品を出版し、子どもたちに平和の尊さを訴えてきた美千子。黒崎が撮影に疲れたとき、「被爆者のことを写真で伝えるのは、あなたしかできない」とそっと背中を押してくれた妻は、一番の理解者でもあった。
妻を失い、あらためて感じた「生」と「死」、命の重み。手元には、未完成に終わった美千子の3作目の作品が残る。被爆地長崎に間もなく巡ってくる65回目の8月9日。黒崎は言う。「被爆から65年の今も核は廃絶されず、『被爆体験者』の問題を含め多くの課題が残っている。原爆投下が忘れ去られた遠い過去にならないよう、被爆者の心の内を見詰め、伝えていきたい」。志半ばで逝った妻の分まで、と思う。=敬称略
【編注】黒崎晴生の「崎」は崎の大が立の下の横棒なし。「晴」は晴の月が円。