出会い 「立ち位置」を確信
1967年夏、日本リアリズム写真集団(JRP)長崎支部に入会し、被爆者の撮影を始めた黒崎晴生(くろさきはるお)(75)だったが、やがて見えない壁が立ちはだかる。
当初、黒崎の頭は「何を撮るか」「どういう形で撮るか」という意識ばかりが先行していた。だが、撮影を積み重ねるにつれ、被爆者の心を開き、その理解の上に立たなければ相手の心奥には迫れないことを思い知る。撮る方の自己満足では被爆者の心の傷を広げかねない。心情に寄り添うには腰を据えた撮影が必要だが、銀行勤めで多忙な自分にそれができるだろうか-。そうした「覚悟」へのためらいから、被爆者と接点をつくりながらも、あと一歩を踏み出せずにいた。
転機は79年6月、ある被爆者の存在を知ったことで訪れる。その男性は被爆の後遺症で20年間、寝たきりだという。黒崎は何かに引き寄せられるように、男性が暮らす旧西彼外海町(現在の長崎市神浦北大中尾町)へバイクを走らせた。冨永吉五郎(76)=当時=との出会いだった。
玄関を開けた黒崎を、部屋一面に咲いたサツキが出迎えた。外に出られない夫のために妻、タセが丹精込めて育てたものだった。
冨永は三菱長崎製鋼所(爆心地から1・3キロ)で被爆。軍需工場に動員されていた14歳の長女は行方不明となり、夫婦で焼け野原や救護所などを何日も捜し続けたが、ついに見つけることはできなかった。やがて自身も下半身不随となる。被爆で負った脊髄(せきずい)の傷が原因とみられた。貧しく苦しい戦後だった。
冨永は語った。「自分は原爆の生き証人。どんなに苦しくても生きていかんばいけん」。黒崎はすぐには撮影に入らず、冨永の苦しかった日々の話に耳を傾けた。初めは突然の訪問客の真意を測りかねた様子だったが、何度も足を運ぶ黒崎に「風呂に入りよっところば撮ってくれまっせ」と心を許していく。
妻と保健師に介助されての入浴。若いころに鍛えた肉体はなおたくましく、それだけに原爆に人生を奪われた無念さが黒崎には痛いほど分かった。夫妻は毎週のように通い続ける黒崎をカメラマンとしてではなく、家族の一員のように接した。2人の日常を収めた3枚組みの作品「34年目の夏」はこの年、県展で最高の県知事賞を受賞。「(被写体との)日常的なつながりがあってこそ生まれた作品」と選評された。
冨永の次男、悦男(70)=長崎市神浦北大中尾町=は当時を振り返る。「原爆で苦しんでいる人の立場に立とうとした黒崎さんだからこそ、おやじも受け入れたんでしょう」。仕事の合間を縫っての撮影はその後も続いた。もはや「迷い」は吹っ切れていた。「冨永さんとの出会いは、ほかの被爆者に対してもあと一歩踏み出すことを後押ししてくれた。自分の立ち位置を確信させてくれた」。黒崎はそう話す。
82年11月19日未明、写真を通して被爆の実相、生きることの尊さを訴え、黒崎の活躍を自分のことのように喜んでいた冨永は帰らぬ人となった。黒崎が撮った自らの写真が東京の展示会場で飾られるまさにその日だった。=敬称略
【編注】黒崎晴生の「崎」は崎の大が立の下の横棒なし。「晴」は晴の月が円。