原体験 旧満州で家族失う
被爆者の表情や姿、生活をカメラで記録してきた写真家、黒崎晴生。その一枚一枚は、被写体となった被爆者と共同で作り上げた作品という。黒崎の足跡、被爆65年を迎える今の思いをつづる。
原爆症に苦しみながら核の非人道性を告発し続けた長崎の被爆詩人、福田須磨子(1922~74年)の悲痛な表情をとらえた一枚の写真がある。68年8月8日、長崎市内であった原水爆禁止世界大会での一こまだ。撮影者は当時33歳の黒崎晴生(くろさきはるお)(75)=長崎市桜木町=。カメラ歴は10年近かったが、被爆者をクローズアップした撮影はこれが初めてだった。
長崎師範学校(爆心地から1・8キロ)で被爆し、原爆に両親と長姉を奪われた福田。この日は脱毛した頭を帽子で隠し、高熱を押しての参加だった。「戦争は罪悪。命を懸けて平和運動を続ける」「被爆者はあまりにも惨めな待遇を受けている。援護法を完全に勝ち取らないと死んでも死にきれない」。ケロイドの顔が怒りに震え、声は涙ににじんでいた。原爆犠牲者の怨念(おんねん)、そして国の援護も満足にないまま、体と心に癒えぬ傷を背負わされた被爆者の声なき声を代弁するかのようだった。
黒崎は福田の心の叫びに突き動かされるように、無我夢中でシャッターを切り続けた。この写真は黒崎にとって「原点」ともいえる一枚になる。
黒崎は被爆者ではない。長崎で被爆者の撮影を40年以上続け、その思いを見詰めてきた写真家の原体験は、幼少期を送った旧満州(中国東北部)にある。
35年、平戸生まれ。大陸での新生活を求めた両親らと渡った満州・大連にいたときに真珠湾攻撃が始まり、そして敗戦を迎えた。「これからどうなるんだろう」。漠然とした不安、疑問は現実のものとなる。日本人に虐げられてきた中国人や朝鮮人、参戦したソ連軍などによる略奪、暴行。強制労働への駆り出しも組織的に行われた。「表通りでは、侵攻してきたソ連軍が発砲していた。みんな家の戸締まりを固くし、閉じこもった」
敗戦から間もない45年8月、友達と公園へ遊びに行った弟がソ連軍のトラックにひき殺された。黒崎らが駆け付けたとき、弟は頭から血を流して倒れ、トラックの姿は既になかった。母は幼い命を守ることができなかった自分を責めた。うつろな表情の母の声が黒崎の胸に深く染み込んだ。
劣悪な食料事情の中、祖母は肺炎をこじらせて絶命。家族を生き永らえさせるため体にむち打ってきた父も、日本への引き揚げを目前にした47年3月、ようやくたどり着いた引き揚げ者収容所のいてつく部屋で息を引き取った。父の遺骨は今も、大連の大地のどこかに眠ったままだ。
帰還した黒崎がカメラを扱うようになったのは、勤めていた銀行の労働組合で機関紙編集を担当したのがきっかけだった。67年夏、日本リアリズム写真集団(JRP)に入会。被爆者を被写体とした撮影を始め、これまでに150人以上をカメラに収めた。黒崎の気持ちを押し出したのは何だったのか。黒崎は思う。「遠い日、弟の死にもだえ苦しんでいた母の姿と、父たちのむごい死。そこに、原爆で家族を失い、心の傷を癒やせずにいる被爆者の存在をオーバーラップさせたのかもしれない」。満州での戦争体験に根差した被爆者の記録活動。それは黒崎にとって、必然の運命だった。=敬称略
【編注】黒崎晴生の「崎」は崎の大が立の下の横棒なし。「晴」は晴の月が円