山田一美さん 紙一重の局面を越えて
山田一美(76)=長崎市旭町=は当時、西浦上国民学校6年生。満州暮らしの家族と離れ、昭和町で雑貨店を営む祖母の家から学校に通っていた。叔母も同居していた。
午前中、学校は休み。家で友人と将棋を指していたが口げんかになり、友人は近所の浦上川に泳ぎに行った。山田は後輩2人を連れ、雑貨店で扱っている新聞の配達へ。その帰り、住民らが道端で空を見上げていた。真っ青な空だった。
「落下傘、落下傘」。後にラジオゾンデ(爆圧等計測器)だと分かった。山田らも見上げたが、見つけられない。「もう行こう」。3人で歩きだし、小山の影に入った途端、強烈な光を感じ、その場に突っ伏した。爆心地から約2キロ。頭の中が真っ白になり、音も爆風も感じない。ただ熱かった。「これで死ぬ」と思った。目を開けると、さっきまで空を見上げていた人たちが大やけどを負って逃げ惑い、わらぶき屋根の家が燃え上がっていた。道で暴れ回る牛。震えて家へ向かった。
「山田、助けてくれ」。浦上川から別の友人の声が聞こえたが、助けに行く余裕はなかった。あちこちの家が燃えだしていた。
やがて、やけどやけがを負った人たちが、ぞろぞろと歩いてきた。青白い裸で無傷のように見えた人たちは、体中の皮膚がむけて腰の辺りに固まって縮れていた。目玉が飛び出た男性が叫んだ。「坊や、このかたき、取ってくれよ」
将棋を指した友人や浦上川にいた別の友人は後で死んだと聞いた。生と死は紙一重。山田もあと数秒、空を見上げていたら死んでいた。
祖母と叔母は裏山に逃げ、幸いにも助かった。満州から父母ときょうだいも引き揚げてきた。山田は高校、大学を卒業後、電気機器販売会社に就職。その後、陶器会社を立ち上げた。結婚し、娘3人を育て、6人の孫もいる。一庶民としてひたすら働き、生きてきた。「ただ核爆弾だけは絶対使っては駄目だ。一般庶民を無差別に殺し、苦しめるから」
「ひまわり」には、知人に誘われた。楽譜は読めないが、若いころから親しむ詩吟に合唱の発声が役立つかな、という程度の動機だった。
被爆者がすべて重い後遺症で苦しんでいるわけではない。自分には思想もない。ただ被爆の体験者、目撃者として事実だけは伝えたい。「なぜか生き残った。何か役目を担わされているのかもしれない」。あの日、友人を助けられなかった記憶がうずく。山田は爆心地の空を見上げた。
◇ ◇
平和祈念式典まであと9日。さまざまな人生を黙々と歩んできた被爆者たちが一つになって、核兵器廃絶への希望を歌う。思いはきっと世界に届くと信じて。(敬称略)