平原ヨシ子さん 短歌へ込めた希望胸に
「死の灰と識(し)らざりし彼(か)の日の吾なるや 殺剤の缶を蟻が這いゆく」。平原ヨシ子(81)=長崎市上小島2丁目=が1999年に詠んだ短歌。アリが殺虫剤の缶をはう様子と、あの日、何が起きたのか分からず歩き回った自分がダブる。
平原は45年春、県立高女を卒業。離島の高島の国民学校で小学校教員として働き始めた。まだ16歳。8月9日、父や同僚と長崎の小曽根町へ船で渡り、父と別れた。同僚は岩川町へ。平原は西小島の友人宅に向かった。
浜の町電停で路面電車を降り、歩きだした。突然、黄色い閃光(せんこう)が走り、白い土煙に包まれた。とっさに建物の壁面に体を寄せた瞬間、猛烈な爆風が押し寄せた。防空ずきんで頭や顔を覆った。「近くに爆弾が落ちた」。父や同僚、母の顔が浮かんだ。
目を開けると、がれきが散乱し、無数の電線がずたずたに切れて垂れ、血を流している人もいた。泥だらけで走り、防空壕(ごう)にたどり着いたが、町内の人以外は入れてもらえず、近くの友人宅に逃げ込んだ。高島に帰る船は午後5時。小曽根町に戻ると、大波止の向こうはどす黒い煙がもうもうと上がっていた。
「生きとったか」。父と再会した時、涙が止めどもなくあふれた。
夜、高島から見た伊王島の向こうの本土の空はまっ赤に燃えていた。翌日から、ひどいやけどを負った人たちが次々に船で運ばれてきた。
結婚後、夫の転勤で端島、北九州、兵庫と転居。81年、長崎に帰郷した。平和活動などをしてきたわけではないが、被爆の記憶は折に触れてよみがえる。女学校時代に始めた短歌が心の慰めであり、ささやかな自己表現として反戦の思いを盛り込んだりしている。
2008年、知人に誘われて「ひまわり」に。歌うことは短歌と同様、自分が無力ではないことを実感させてくれる。「平和に向かって何かをすること」。それが務めと平原は思う。
「いくら力んでも歌はうまくならない。けれど心を込めることぐらいはできる。たくさんの子どもらの心に響いてほしい」
原爆投下からの歳月、核兵器は増え、戦争が起き、今も危うい均衡の中にある。世界は矛盾だらけだ。
「原爆忌またもめぐり来(く) あらたなる危機のいくつを重く担ひて」
式典で平原は、自作の短歌に込めた不安や希望も胸に秘め、精いっぱい歌うつもりだ
(敬称略)