日本原水爆被害者団体協議会事務局長 田中熙巳さん(77) 伝えたい本当の苦しみ
長崎市中川町の自宅2階で読書中、突然、光に包まれ階下へ駆け降りた。周囲が青、黄、だいだい、赤へと変化していく。玄関の畳に伏せた瞬間、強烈な爆風で意識が飛んだ。爆心地から3・2キロ。13歳だった。
家にいた母と妹も助かった。3日後、親せきを捜し、母と爆心地一帯を歩き回った。無数の遺体、横倒しの馬車馬。川は人で埋まり、正常な景色はどこにもない。母が言った。「横を向いちゃいけない。真っすぐ見て歩け」
5月のNPT再検討会議に合わせ、被爆者約100人が渡米する。多くが年老いている。被爆者が集団で世界に対して動くのはこれが最後かもしれない。だが、悲壮感より期待感が勝っている。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)として、5年前のNPT会議で取り組んだ国連本部での初の原爆展。パネル30枚を用意したが、ロビー展示は数枚に限られた。会議内容も核兵器保有国と非保有国が対立し決裂。失望感が漂った。
今回の原爆展は違う。国連本部ロビーのメーンギャラリーを割り当てられ、被爆の惨状などを伝える大型パネル50枚を設置する。「核兵器なき世界」への兆しは、同展の扱いにも影響している。タイトルは「ヒロシマ・ナガサキから世界へのメッセージ」(5月3日~6月末)。その場所で被爆者は、被爆の実相を語るのだ。
渡米しない被爆者たちも米国や世界に伝えたいことが山ほどある。
「Give me back my parents.Give me back my family」(両親そして私の家族を返せ)-。被団協がNPT会議に向けて募集した被爆者からのメッセージ1030のうち、93を抜粋した冊子の英訳版。約2千部を米国に持参する。各国政府代表や学校などに配布し、日本にとどまる被爆者の思いも届けるつもりだ。
海外では、原爆の被害が規模を表す数字でしか伝わっていない面がある。それでは本当の原爆の実態を想像できるはずがない。一人一人に降り注いだ無念と苦しみ。それが何十万とあって、そのすべてが広島、長崎への1発ずつの原爆投下で引き起こされたことを世界に実感させたい。
NPT会議ではせめて核兵器を「いつまでになくす」という期限を確認してほしい。あの日から65年。今が最大のチャンスだ。