長崎原爆遺族会顧問 下平作江さん(75) 亡き妹の力借りて
「約7万人が黒焦げになり、白骨になった。そのお骨の上に進駐軍は土をかぶせた。そのお骨を踏み付けて歩く皆さん。次の世代にも被爆の実相を伝えてほしい」。3月25日、長崎市の長崎原爆資料館ホール。県外の中学から来た修学旅行生約280人を前に、はっきりとした口調で語った。
戦時中、いつも空腹だった。10歳の時。8月8日夕、家族が集まった。毎月8日は開戦記念日。母は着物をわずかな白米と交換し、炊いてくれた。茶わんの底の数粒をかみしめた。楽しかった晩ご飯が、最後のだんらんとなった。
翌日、母、姉は爆死。兄も苦しんで死んだ。防空壕(ごう)で一緒に助かった2歳下の妹は後年、やけどした腹にうじがわき、苦悶(くもん)した。「母ちゃんとこに行こう」。妹の求めに「生き残ったんだから」と励ました。妹は18歳で鉄道自殺した。
多種多様な症状に苦しみながら、語り部活動を続ける。被爆直後の防空壕内の様子は詳細だ。「目玉がトローンとぶら下がり、真っ黒焦げ、肉がぼろぼろにちぎれている人、はらわたが飛び出た人」-。言葉を尽くし、若い世代に原爆を伝えようと試みる。
保護者からクレームの電話がかかってきたこともある。むごすぎて子どもの心が傷ついたという。「いいお子さんですね。話をしっかり受け止めたんですね」。途中で電話を切られた。でも、もし戦争がまた起きたら、あの光景は再び現実となる。架空の話ではない。この地で体験したことなのだ。
海外には幾度も出掛けた。米国では「戦争を早く終わらせた原爆投下は正当」という論理がまかり通っている。「正当ではありません。なぜなら非戦闘員の年寄りと女性と子どもを狙ったから。それが正当ですか」。相手は口ごもり「アイムソーリー」。
イギリスの大学では「核保有国だから平和です」と学生。ひるまず聞き返す。「戦争が起きれば誰かがボタンを押す。尊い命が消え、人々は放射能による訳の分からない病気で苦しみ続ける。それが平和ですか」
この65年、被爆の実相は世界にあまりにも知られていない。被爆地を見詰めてもらえないのはなぜか。日本政府がこれまで、被爆国として真剣に世界へ訴えてこなかったからではないか。各国のトップの考えをあらためさせなければならない。渡米したら、あの日をまた、詳細に話すつもりだ。妹の力も借り、閉ざされた扉をこじ開けるために。