原爆投下国へ
 NPT再検討会議に向けて 3

「一人の被爆者が一人の心を揺さぶることならできる」と語る小峰さん=長崎市岡町

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原爆投下国へ NPT再検討会議に向けて 3 長崎原爆青年乙女の会事務局長 小峰秀孝さん(69) 米兵も同じ人間だ

2010/04/03 掲載

原爆投下国へ
 NPT再検討会議に向けて 3

「一人の被爆者が一人の心を揺さぶることならできる」と語る小峰さん=長崎市岡町

長崎原爆青年乙女の会事務局長 小峰秀孝さん(69) 米兵も同じ人間だ

「人はオバマ、オバマと言うけれど、彼は『核兵器なき世界』を掲げながら、核の抑止力を前提にしている。あんまり期待しすぎちゃいけない」

4歳8カ月のころ、自宅裏でセミ捕りをしていて被爆。爆心地から1・2キロだった。両手足や腹にひどいやけどを負い、後遺症で真っすぐ歩けなくなった。

「腐れ足、鳥の足、がね(カニ)の足」、怠け者を意味する「ブラブラ病」ともやゆされた。ケロイドと苦難の半生そのものが「原爆の記憶」だ。

戦後、しばしば被爆者の自殺があったことを思い出す。被爆者援護のない時代。入水、首つり。鉄道自殺も多かった。「また飛び込んだぞ」。誰かが叫ぶと、足を引きずって見に行った。バラバラになった遺体を片付ける国鉄職員。線路脇に残った肉片を真っ黒なカラスがついばんでいた。救いのない情景だった。

自身も自殺未遂を経験した。結婚そして離婚。「酒を飲み、夜更かし。まじめではなかったかもしれない」。働きながら3人の子を何とか育て上げた。

あの日、爆死した人。生き延びたのに原爆症で死んだ人、自ら命を絶った人、後年になってがんで亡くなった人-。死屍(しし)累々の名もなき犠牲者たちに押されるようにして、生きてきた。

渡米は3度目になる。当初、原爆を投下した米国に強い憎悪があったが、徐々に戦争そのものへの怒りに変わった。2007年に渡米した際、ベトナム戦争に出兵した黒人の元米兵がこう語った。「倒れた敵兵の服をまさぐると、ポケットから血で汚れた家族の写真が出てきた。自分と同じ人間だと思った。除隊して2年間、死臭が体から消えず、外にも出られなくなった」。米兵は戦争で深く傷ついていた。その苦悩に心を重ねることができた。目の前の元米兵は同じ人間だと思った。

被爆者の山口仙二さんの勧めで20年ほど前から被爆の語り部活動に力を注ぐ。「一人の被爆者は国を動かせなくても、一人の心を揺さぶることならできる」。戦争も原爆投下も人間の蛮行。分かり合い、止められるのも人間だけだ。だから語り続ける。

「無言で死んでいった被爆者たちは、言いたいことが山ほどあったはず。だから代弁者として米国でも語る。いつか、あの世で会ったら『よくやってくれた』と褒められるかなあ」