長崎原爆被災者協議会理事 池田早苗さん(77) 憎しみをのみ込んで
12歳の時、爆心地から約2キロの路上で被爆。6歳の妹は、自宅近くの側溝で黒焦げで見つかった。「これは戦争じゃない。戦争以上の、特別な爆弾が落とされた」。泣きながら、そう思った。
残るきょうだい4人も次々に死んだ。いつかハタを揚げて見せた時、空を仰いで無邪気に喜んだ4歳の弟の亡きがらは、自ら火葬した。開戦の日に生まれ、平和を知ることもなく、炎の中でくぐもった関節の音を鳴らして骨になった。
14歳の姉の肌には黒い斑点が浮いた。手足をさすってやると細かいガラス片が無数に刺さって膿(う)んでいた。日本が戦争に勝ったと信じ「天皇陛下、万歳」と叫び、絶命した。
爆死した人々の火葬が続いた長崎市三芳町付近の国鉄用地。真っ白な人骨が散乱した風景が延々と広がっていた。カラカラ、カサカサ-。セキレイが骨をけ飛ばして飛び立った。
「地球の裏側まで穴を掘って米国に行って、爆破したい」。本気でそう思った。翌年だったか。進駐軍のトラックの荷台で米兵数人が騒いでいた。米兵が手にした棒の先に、頭蓋(ずがい)骨が刺さっていた。
1989年9月、平和公園。抗議の中、核積載疑惑がある米海軍フリゲート艦の艦長が献花した際、怒りが頂点に達した被爆者が花輪を踏み付けて問題になった。近くにいて、自分は踏まなかったが、誹謗(ひぼう)中傷の電話が自宅に何度もかかってきた。家族を焼き殺され、次々に命を奪った原爆投下国への憎しみさえ、被爆者はのみ込まなければならないのか。
「戦争が憎い 原爆が憎い 核兵器が憎い」-。2001年、長崎原爆の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和の誓い」を読み上げた。当初の原稿には「米国が憎い」という言葉を入れていたが、長崎市の担当者に指摘され「戦争が憎い」に書き換えた。
原爆投下を米国は謝罪していない。憤りが消えたわけではない。弟を火葬した時の音や転がる骨の音は、今も耳にこびり付いている。しかし、生き残った自分には、課せられた使命があるのかもしれない。「特別な爆弾」がどんな悲劇を招いたか。今も約1万発の核弾頭を保有する米国人にこそ語らなければならない。
NPT再検討会議に合わせ、初めて渡米する。記憶の中のきょうだいたちを一緒に連れて行く。被爆体験を何度でも分かりやすく証言しようと思う。米国人らの顔を真っすぐに見て。心に響くように。