記者ノート 山口恭祐(佐世保支社) 各地に埋もれた歴史 実相 関心広げ“終着駅”へ
佐世保市権常寺町の郷土史家、吉永満さん(81)から、救援列車で運ばれ亡くなった被爆者の墓碑が以前、早岐地区にあったと聞いたのは3月下旬だった。
救護に当たった人が無縁仏の供養にと建て、当時の市長が題字を寄せたが、さまざまな経緯を経て移転され、今は早岐にない。「住民が懸命に被爆者を助けた歴史が、早岐で忘れ去られるのは寂しい」という吉永さんの言葉とともに、連載本編の第1回(8月11日付)で紹介した。
被爆地長崎以外の県内の市や町にも原爆にまつわる歴史はある。救援列車が到着した時の救護活動はその代表だ。だが長崎に比べると、佐世保で原爆について取材する機会は少ない。佐世保に限らず、各地にまだ原爆の記憶が埋もれているのではないか。そう考えたのが連載のきっかけだった。
取材は何度も壁に突き当たった。
埋もれた記憶を掘り起こす作業は、当時の関係者を捜すことから始まった。だが原爆投下から64年がたち「あの人ならよく覚えていたのに…」という人が既に他界していた、ということが何度かあった。
取材した人たちは一様に悲惨な光景を鮮明に語り、記憶が脳裏に刻み付けられた様子は印象に残った。ただ前後の経緯などについてはあいまいなことも多かった。記録などを基に事実確認を試みたが、救援列車については元々不明な点が多く、経緯が不確かなまま書かざるを得なかった。
歳月は既に多くの体験者の肉声を聞けなくしただけでなく、存命の体験者の記憶も“浸食”している。被爆の実相を後世に伝えるために、できるだけ多くの体験者の記憶を記録しなければならない。事実関係が不確かな点については、証言者がいるうちに調べておく必要性も感じた。
連載には、被爆地ではない各地のエピソードを紹介することが、被爆地の外で原爆の実相や核兵器廃絶の願いに関心を広げるきっかけにならないか、との狙いもあった。
同僚記者は連載の題名「被爆者を乗せて-」について「被爆者を乗せた列車は、まだ終着駅にたどりついていない」と言った。核兵器廃絶の実現が終着駅だとすれば、確かに今は進むべき線路が定まっていない。車掌を務める米大統領がようやく終着駅を目指すと意思表示した、といったところだろうか。
核兵器廃絶までの道程を救援列車の運行に例えるなら、沿線、すなわち被爆地外の人々の尽力が鍵を握る点もまた、同じだと思う。