被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 4

ここに埋葬された被爆者を供養するため建てられた観音像=諫早市長田町

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 =続編= 4 近藤原理さん(北松佐々町) 墓標下、兄の遺体発見 諫早搬送、誰かが長田まで

2009/09/29 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 4

ここに埋葬された被爆者を供養するため建てられた観音像=諫早市長田町

近藤原理さん(北松佐々町) 墓標下、兄の遺体発見 諫早搬送、誰かが長田まで

伊東静雄研究会代表、上村紀元(69)=諫早市原口町=が関心を持った長崎師範学校1年、近藤耿=当時(17)=の原爆死をたどると、被爆の実相の広がりを感じさせる。耿の弟で長崎純心大客員教授、近藤原理(77)=北松佐々町=らが取材に応じた。

詩人・教育者だった近藤益雄(1964年死去)の長男耿は平戸市の中学猶興館5年の時、三菱長崎造船所へ学徒動員。軍艦の電気艤装(ぎそう)などに従事した。「兄は電気配線が得意で、尊敬していた」と、もう一人の弟で飲食店経営、汪(75)=平戸市田平町=も語る。

耿は佐賀高校(現佐賀大)文科に進みたかったが、「国のため、教育者にしたい」と考えた益雄に反対され長崎師範学校へ。7月20日入学し、近くの長崎純心高等女学校裏で防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆。救援列車で諫早市へ運ばれ、長田国民学校で8月11日早朝、遺体で見つかる。

「11日の夜、平戸の自宅周りを誰かが草履で歩く音を聞いた」と原理。耿を心配し、原理と母えい子(81年死去)が13日未明、長崎市へ向かった。諫早海軍病院に搬送されたと分かり諫早市へ。海軍病院の収容者名簿に耿の名前はなかった。ほかの収容先や大村市内も回ったが見つからず。

あきらめて14日夕、帰宅すると長田の住民からはがきが届いていた。「耿君がけがをして、長田国民学校に収容されています…」。諫早へ取って返した。長田国民学校でろうそくの火を頼りに各教室を捜した。「近藤耿はいませんか」

はがきをくれた男性宅で「残念です」と告げられた原理は玄関土間で泣いたという。男性は10日に長田駅で耿に家族への連絡を頼まれ、11日朝教室へおかゆを届けると既に冷たくなっていたと説明した。

原理たちは15日、駐在所で死亡者名簿を調べ、台湾出身医師に耿の死亡診断書を書いてもらい、埋葬された丘を確認。地区の火葬場跡で、既に100近い墓標が立っていた。耿の墓標を確認しただけで、遺体を掘り起こしたのは1カ月後の9月15日。

「墓標は130か140ほどに増えていた。兄の墓標下から掘っても掘っても別の遺体。ぼくが贈ったベルトが目印になった」。上半身裸で腐敗も進んでいたが荼毘(だび)に付し、少しだけの骨を持ち帰った。原理はその後、ここを命日ごとに何回が訪問。いつごろか、埋葬遺体を機械で掘り返し骨は長崎市の無縁納骨堂に移したと聞いた。

丘には高さ約50センチの石の観音像がある。88年にデイサービス事業を始めた社会福祉法人理事長、尾形紘行(68)=諫早市長田町=が供養のため建てた。今年の命日に訪ねた原理は心の整理がついた気がした。当時の記憶は鮮明だが、諫早駅から長田まで誰が耿を運んだか、はっきりしないという。(敬称略)