被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 2

本編の切り抜きを手に、記憶をたどる北村志津子さん=長崎市の自宅

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 =続編= 2 北村志津子さん(長崎市) 通路に横たわる赤ん坊 悲惨な光景停車地ごとに

2009/09/26 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 2

本編の切り抜きを手に、記憶をたどる北村志津子さん=長崎市の自宅

北村志津子さん(長崎市) 通路に横たわる赤ん坊 悲惨な光景停車地ごとに

「あっ、あの赤ん坊だ」。長崎市出島町の北村志津子(78)は「被爆者を乗せて-」本編の第2回(8月12日付)を見て思わずうめいた。見出しには「真っ黒の赤ん坊 脳裏に」の文字。北村にも64年前から脳裏を離れない“真っ黒の赤ん坊”の姿があった。

当時14歳。佐世保市の早岐駅前に住んでいた。長崎原爆戦災誌によると、同駅に救援列車が到着したのは原爆投下翌日の1945年8月10日朝。早岐での救援列車に関する北村の記憶は断片的だが、赤ん坊については今も鮮明だ。客車の通路に横向きに倒れ亡くなっていた。「こんなふうに倒れていたんです」。床に寝そべり“再現”して見せた。

本編では当時、諫早駅に勤めていた木下信夫(82)=諫早市天満町=が9日、最初に被爆者を運んだとされる救援列車(311号)に、自宅近くの喜々津駅(同市)から諫早駅まで乗ったことを紹介。車内で真っ黒な赤ん坊を目撃し、今も「あの子はその後どうなったのか」と気に掛けているとした。北村は「赤ん坊は早岐にいたと伝えてほしい」と長崎新聞社に連絡した。

偶然だが木下も同じころ、赤ん坊に関する新たな手掛かりを見つけていた。

木下は取材を受けた後、被爆50年(1995年)で国鉄労働組合などがまとめた証言集「この怒りを」を読み返した。この中に、本編で紹介した311列車の運転士、光武冨士男(故人)の手記があった。

光武は「大村駅では、1歳くらいの子どもが裸の火傷(やけど)で体液が流れているにもかかわらずホームに降ろされ、苦しさのあまりホームの上をゴロゴロ転げ回っていました-」と振り返っていた。木下は「この子があの時見た赤ん坊だ」と考えるようになった。

記録などから推測すると10日朝、早岐駅に着いた救援列車は311列車ではなく、赤ん坊が早岐で降ろされた可能性は低い。木下は「(北村が見た赤ん坊は)私が見た子とは違うだろう」と話す。

木下の話を受け、当時大村駅で、救援列車が到着した9日に救護活動に当たった元駅員の林田国夫(82)=大村市武部町=にも聞いた。「水を飲もうと、構内の小さな防火用水に頭を突っ込んでいる人がいた。ホームで亡くなった人もいた」と語ったが、赤ん坊は見覚えがないという。

結局、赤ん坊がその後どうなったかは不明のままだ。ただ救援列車が止まった各地に当時、同じような悲惨な光景が広がっていたことは間違いない。