榊安彦さん(長崎市) やけどの姉 息引き取る 治療向かうも早岐で火葬に
長崎市に原爆が投下された1945年8月9日から運行された救援列車にまつわる出来事を各地で取材した「被爆者を乗せて 救援列車の記憶」(8月11~16日付、全6回)を掲載後、反響が寄せられた。それを基に、新たな記憶の糸をたぐる。
「姉が火葬された寺がどこか分からないだろうか」
長崎市泉1丁目の榊安彦(72)は連載を読み、長崎新聞社に問い合わせた。8歳で家族とともに被爆。救援列車の忘れられない記憶が自分にもあると語った。
安彦によると、純心高等女学校の生徒だった4番目の姉フミ子=当時(15)=は、家野町の自宅近くの路上で被爆。爆心地側に面していた半身に大やけどを負った。町の共同防空壕(ごう)のそばで捜していた2番目の姉が見つけ、榊家が用意していた防空壕まで連れてきた。
安彦は8人きょうだいの末っ子。自宅で被爆し、一緒にいた母と近くの墓地に避難した後、家の防空壕へ。既に2番目の姉とフミ子がいた。フミ子は苦しげだったが、額を切る大けがを負った安彦を「かわいそうにね」と気遣った。
母は治療を受けさせようとフミ子を救援列車に乗せることにし、後で戻った3番目の姉を付き添わせた。自身は安彦と、勤務先の三菱長崎製鋼所(茂里町)に行ったまま安否の分からない父を待つことにした。フミ子らは9日夜、六地蔵(赤迫)で列車に乗った。
喜々津(諫早市)付近で、フミ子は並んで座っていた3番目の姉に「姉ちゃん、目の前が真っ暗になった」と言い、息を引き取った。翌朝佐世保市の早岐駅で降ろされ、フミ子の遺体は近くの寺で火葬された。
3番目の姉は10日に長崎市へ戻ったが、安彦と母はそのころ諫早市にいた。同日朝まで父は戻らず、母は安彦の治療のため救援列車に乗った。11日、また2人で長崎市に引き返した。
道ノ尾駅で列車を降り防空壕に戻る途中、母は偶然会った父の部下から父の死を知らされた。製鋼所で被爆後に亡くなり、既に土葬されていた。防空壕では3番目の姉が、フミ子の遺骨と一緒に待っていた。
「姉(フミ子)は列車に乗る前、『行きたくない』とずいぶん泣いた。父と姉両方の死に目に会えなかったと、母はすごく悔やんでいた」。安彦は35年前に亡くなった母を振り返る。
救援列車をめぐり一家は悲運に見舞われた。だが安彦は「救援列車がなかったら被爆者はどうなったか。いつ敵機が襲ってくるかも分からない中、よく運行してくれた。当時のことはすべて原爆のせい」と話す。
フミ子が火葬された寺を長年調べてきたが、どこかは今も分からない。「姉(フミ子)は母を恨んでいるかもしれないが、仕方なかった。『母を恨まないで』と伝えたい」。遠くを見るような目でつぶやいた。(敬称略)