被爆者を乗せて
 救援列車の記憶 6(完)

国鉄原爆死没者慰霊式で朗読される父の手記に聞き入る光武正寛さん(中央)=9日、JR浦上駅

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 6(完) 浦上 一人でも多く助けたい 全力尽くした運転士の父

2009/08/16 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶 6(完)

国鉄原爆死没者慰霊式で朗読される父の手記に聞き入る光武正寛さん(中央)=9日、JR浦上駅

浦上 一人でも多く助けたい 全力尽くした運転士の父

「『苦悩と絶叫と自失の焦土から負傷者を運び出したい』ただその一心でした。一人でも多くの人が助かってもらえたならば、輸送に当たった国鉄職員として最高の報償であると思います」

長崎原爆の爆心地から1キロ足らずのJR浦上駅(長崎市)。駅舎の傍らに立つ慰霊碑前で9日、恒例の国鉄原爆死没者慰霊式が営まれた。最後に、ある被爆者が残した言葉を司会者が読み上げた。

国鉄労働組合などがまとめた「『この怒りを』被爆60年特集号」に光武冨士男が寄せた手記の一節。光武は1945年8月9日、最初に被爆者を市外に運んだとされる救援列車(311号)の運転士。今年7月10日、83歳で死去した。

国労長崎地区本部などが制作したDVD「『この怒りを』被爆60年特集長崎版」に、光武のインタビューが収録されている。

それによると、長崎行きの311列車に乗務。途中、上り列車を待ち停車していた長与駅で原爆に遭った。「体の中を光が走ったような気がした」

列車は急きょ救援列車として運行されることになった。道ノ尾駅を経て六地蔵(同市赤迫)付近まで進み被爆者を収容(清水町の照円寺付近までとの説もある)。諫早、大村、川棚の各駅で降ろし、早岐駅で方向転換して再び長崎へ向かった。

はがれた背中の皮をひらひらさせながら歩く裸の被爆者や、倒れた人を踏み台に列車に乗り込む姿を見たと証言。「戦争は本当に嫌。あの惨状を見れば誰でもそう思う」と語っている。

9日の慰霊式に遺族として参列した光武の長男で長崎市消防局職員、正寛(53)=同市柳谷町=は、手記に静かに聞き入った。負傷者を助けるため力を尽くした父の思いを知り「自分も初心に戻って仕事をしなければ」と思った。

正寛によると冨士男は戦後、市消防局に勤務。がんを患い、2カ月前に亡くなった妻の後を追うようにこの世を去った。原爆症認定を申請していたが、認定されないままだった。

日本政府が米軍核搭載艦船の日本通過・寄港を容認していたとされる核密約問題や、米の「核の傘」に頼る被爆国の姿に怒りを感じる。「もっと詳しく父の話を聞いておきたかった」。父の体験を後世に伝えることの大切さを考える。

原爆投下、終戦から64年。私たちが当時の体験者の肉声を聞くことができる時間は刻々少なくなっている。(敬称略)