川 棚 救護従事者の口重く 語り部「一人」、継承の危機
東彼川棚町白石郷の高台にある団地近くに、原爆死没者の慰霊碑が立っている。町が1991年建立、毎年8月に慰霊祭を開く。今年も9日にあったが、出席者はわずか10人。強い日差しが照り付ける中、住職の読経が静かに流れた。
「長崎原爆戦災誌」によると、長崎市に原爆が投下された翌日の10日早朝、被爆者を乗せた救援列車が町中心部の川棚駅に到着。2陣に分かれ、計二百数十人が運ばれてきた。
負傷者は当時の川棚海軍工廠(こうしょう)や川棚海軍共済病院などに収容。医師や役場職員、婦人会員らが世話に当たったが、73人が亡くなったという。
碑文に「身元不明の十一名を火葬し、この地に埋葬した」とあり、碑の横で無縁仏として祭っている。
県原爆被爆者援護課によると、川棚町の被爆者健康手帳所持者は270人(6月末現在)。このうち被爆者の救護などで被爆した「3号被爆者」は176人(総数の65%)。直接被爆者67人の3倍近い。
被爆者支援などを目的に2000年発足した川棚町原爆被爆者協議会の150人の会員の大半は3号被爆者。会長の田嶌勉(67)は「あの日のことを積極的に語ろうとする会員はほとんどいない」と明かす。偏見や差別を気にした女性が多いからではないかとみている。会員の高齢化に伴う記憶の消滅に危機感を感じつつも、手を打てないのが実情だという。
町内で数少ない直接被爆者、森田宏(74)は爆心地から遠く離れた町の「たった一人の語り部」を自称。近郊の学校で体験を語り継ぎ約10年になるが「あの時見た惨状、平和への願いを子どもにどう伝えればいいか難しい」と自問している。
9日は町立石木小の平和集会に招かれた。全校児童を前に、被爆者の痛々しい姿を描いたイラストなどを使い当時の状況を説明。アルミ製の弁当箱や乾パンも持参し被爆直後の暮らしを汗びっしょりになりながら語った。
「原子爆弾はどこから落とされたの」「当時の友達は生きていますか」。次々と質問が出た。校長の森田法幸(53)はこの光景に驚いた様子で、「家庭で原爆の話をできる祖父母はそう多くないはず。じかに話を聞けば子どもの関心もこれほど高まるのに」。
「けが人に水や食料を運んでも、口にすると次々息絶えてしまった」-。列車で運ばれてきた被爆者の救護に当たった町内在住の元助産婦の女性(88)が当時を語る証言は今も鮮明で生々しい。だが、「われわれは少しだけ手伝ったにすぎない。直接被爆者に比べればとても話なんかできない」と自重している。(敬称略)