諫 早 真っ黒の赤ん坊脳裏に 爆心近くまで同乗、救出
1945年、諫早市天満町の木下信夫(82)は当時18歳。国鉄諫早駅で列車の編成作業などに当たる操車係を務めていた。8月9日は非番で同市久山の自宅にいたが、午前11時ごろ空襲警報が鳴り、すぐに外に出て空を見上げた。
ピカッと閃光(せんこう)が走り、爆発音がした。山の向こうの長崎方面が赤く燃え、真っ黒い煙が立ち上がり、辺りが薄暗くなった。原爆が投下された瞬間だった。
木下は諫早駅に駆け付けるため、最寄りの喜々津駅へ。そこで「長崎は全滅」と聞かされる。やがて上り列車が到着。車内は負傷者で埋まっていた。着物がぼろぼろに焼け焦げた人、皮膚がぶらりと垂れ下がった人。そして忘れられない光景を目にした。「小さな赤ん坊が丸裸で床に転がされ、真っ黒になって泣いていた。あの子はその後どうなったのか」
この列車が最初に負傷した被爆者を長崎市外へ運んだ救援列車(311号)だったとみられる。
9日の救援列車の運行については詳しく分かっていないことも多いが、「長崎原爆戦災誌」や国鉄労働組合などがまとめた「『この怒りを』被爆60年記念号」によると、4本程度が運転され諫早、大村、川棚、早岐などで合計約2500~3500人の負傷者を降ろしたとされる。
311号列車は午前11時10分長崎駅着の予定だったが、定時に15分遅れ長与駅に到着。そこで原爆に遭う。救援のため長崎方面に進むが浦上駅までは行けず、途中で負傷者を収容して引き返した。道ノ尾駅を午後1時50分出発。諫早到着は午後3時ごろだった。
喜々津駅で乗り込んだ木下は諫早駅で夜にかけ、救援列車から負傷者を降ろす作業に就いた。駅前に設けられた救護所まで戸板や担架で負傷者を運んだ。
諫早市栄田町の馬郡秀勝(80)も当時、16歳で諫早駅に勤務。同様に負傷者の運搬作業に当たった。「『水をくれ』とずいぶん言われたが、与えてはいけないと言われていた」。悔やむように語った。
翌10日朝、2人は道ノ尾駅に行くよう命じられた。駅では列車誘導のため同乗して長崎市大橋付近まで何度か行き、群がる負傷者を助けて列車に乗せた。馬郡は「乗ろうとする被爆者の腕を握って列車に引っ張り上げようとしたら、皮がベロっとむけた」と顔をゆがめた。
「原爆に遭った人は哀れなもの」「この世の地獄」-。惨状は今も、2人の脳裏から消えない。(敬称略)